心を持たない人間

心が羨ましい悪意たちの叫び

心がある者同士であっても、
物事を楽しめる境地にある人の心と
そうでない人の心の間にある差って
ものすごいと思うのだ

創作界隈は特にだ
創作は、心そのものをむき出しでぶつける行為だから……
……制作ではなく創作、手ではなく心を動かすことそのものの過程。


人に悪意や“心無い”言葉(意識) を向けられる、ぶつけられることは、
心身をかなり消耗する出来事で……

心無い (少ない、活用していない) 人にとっては「減るもんじゃない」かもしれないけど
心ある人にとっては「減る」、本当に心身を削られる出来事で

だから、そういう目線を向けられかねない立ち位置から離れたくなってしまうのは、至極当然のことであって……

物事を楽しめる人が減ってしまうことは悲しいし、負けないで欲しいとももちろん思う……
けれど、悪意が怖くてたまらなくなるってことは、そこから自分を守れるだけの力や手段を持っていない可能性が高いんだよね。
悪意に見つかりたくない、そして逃れたいと思う気持ちが優先されてしまうのは仕方のないことで、止められないし下手に止めるべきではないとわたしの理性は考えている

創作意欲を持つ者の一人として、
世界から創作意欲が奪われてしまうことはとても悲しい

悪意の方がなくなって欲しいよね……
創作意欲の方ではなくてさ

一方で、悪意たちのことも悪く思うことはできなくて、
それはこういう側面も見てしまうからだ


そう、
心を折る側の世界観、心境も、
想像してみるとなかなか地獄にお住まいなのである……

本人はその地獄から出たことがないので、
自分が地獄に住んでいるとは思っていないし
地獄の中にいる苦しさと言われてもピンと来ないだろうけどさ

それでも、何か、
絵師(創作者、心ある者) たちが
楽しそう、輝いている、羨ましい ということは
分からないなりに察知しているのだと思うのよな 無意識で

だからこそ“心”が囚われて、
目が離せなくなって、
そしてちょっかいかけてしまうのだろうよ

心が無いから、心無い関わり方しかできないけれど

心が無いから、心が欲しいのだ
心があるというのは、どうやら何か素晴らしいことであるらしいと
心ある者に目を向け、何かを投げかけ、そして意識を向けてもらうことは、
えも言われぬ快感と、そして心のある自分を得る手段に繋がっているような気がすると

しかし心持たざる者が、心持つ者と関わることは非常に難しい
かろうじて点の接点を作るのがようやくで、持続的な、線の交流を持つには至らない
心を分けてもらっても消費して終わりで 己の内に同じものを芽吹かせ育むには至らない
精神性が違いすぎる

だから持つ者の境地、楽しさについて実際に味わうことはもちろん、
思考や想像の中ですら至れない
心持たざる者の境地から見える、心持つ者の境地はあまりにも穴だらけである
どんな懸命に考えても、その中に核心がないために、的外れの考えしかできない (それで金や承認欲求という動機しか出てこない)

核心
核にはが必要なのである

核には……中心には……
そこにはがあるのだ

……まあ
心を獲得したら素晴らしい一辺倒かと言えば、実際はそうでもないんだけど……

悪意・憎悪・嫉妬といった悪感情だって激しくなったりこじれやすくなったりするし
心が大きくなった分ね 抱えている心のすべてが拡大されて大きくなるんだよね

それから、新しく劣等感とか自己嫌悪とかいう嫌な思考と戦うことになったりもするんでね……

心が良いもので満たされているのなら、心が大きくあるほど幸福感は充足する
けど、心に嫌なものもそれなりにあるのなら、心なんてない方が絶対にラクだ

嫌なものを既に持っているのなら、それを追い出すのはなかなか難しい 人間は弱い

創作(に限らないけど) の“道”を歩むことは、それを見ているだけの人からは想像もつかないほどに、精神修養でもあったりする……

心があることは、
心があるゆえの深い喜びを味わえることであり、
心があるゆえの深い苦しみを味わうことでもある

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