- 牛乳の生産と動物愛護 ①生産過程
- 牛乳はダメなの?どうして?という疑問
- 「分けていただく」その過程
- お乳が出る前提には、妊娠出産が必要である
- 生まれた子牛は母親と引き離される
- そもそも「殺していない」わけではない
- “処分品”の歪んだ循環
- 人間は愚かで傲慢じゃ~~!!
- 牛乳の生産と動物愛護 ②人々の意識、精神性
- とはいえ、人間たちを責める気にはなれない
- みんな揃って経済の奴隷
- 人の心と経済合理性
- 動物たちの喜びと繁栄に寄与できるのも、また人間である
- 人々には未来を創る力がある
- 本当の“いただく”とは、差し出されたものを受け取ること
- 余談:超根本的な疑問
- とはいえ、人間たちを責める気にはなれない
とはいえ、人間たちを責める気にはなれない
「生きていくためには当たり前のことだ/仕方がない」という信じ込みがあるので……
そして、そこから抜け出すことは容易ではないので。
個人、たったひとりのこととして考えてもそうなのに、家族や商売も絡むのですから、なおのことです。
……このあたりで、
『酪農家の人たちが悪ではもちろんない』ということも述べておきたいです……
現状で、屠殺に携わっている人たちも含めてです。
社会全体で仕組みや需要等を築き上げて今の状態があるのだから、そこから何かを変えることは簡単ではないし、一人が変われても別の誰かが元の役割を埋めるだけになる可能性も高いだろうし……
そういう中で今たまたまこの役割を負ってくれている人たちに責任を押し付けるのは違うはずだ、と思っています。
酪農自体がなくならなければいけないということもないはずで (後に記述します)、
だったら、次の時代に動物たちを幸せにしてくれるのは誰よりもこの人たちというのもあって。
変化の過程には労力がかかるはずで、
利得が大きい業界でもないでしょうし、
生き物を相手にするって大変なことだし、
そんな中で頑張ってくれている人たちは、
感謝と尊敬の対象であるはずなのです……
みんな揃って経済の奴隷
非道なことがおこなわれていても
責めようと思えない何よりの理由は、
「奴隷扱いされているのは動物たちだけではない」
からです。
人間には、権利を守ろうという意識があり、動物たちよりも反発が通りやすく、そしてどこで生きていくかの自由度が高い (少なくともそのように見える) から、動物たちよりも待遇が良いようにも思えますが……
(牛もそうなんですけど、)
豚の檻を見た瞬間に思ったんですよね。
『これ、オフィスの造りじゃん』
ステイホームを嘆くな。
豚は妊娠中(約114日間)ずっと檻(ストール)で過ごす。
スペースは、幅60cm奥行き180㎝で転回ができない。
母豚は分娩が近づくとストールに入れられ、子豚が離乳すると次の種付けが行われ再び妊娠ストールに戻される。檻を出るときは屠殺場に行くときだ。
人間の方が動物たちよりも空間に余裕があり、その場を離れる自由も (多少は) あり、そして一日の終わりにはもっと動きやすくてくつろげる空間へ帰ることができる と、
締め付けが緩やかではあるものの……各々に最低限必要なスペースを与えて並べ、
指定された時間や期間の中で、
一定の生産力を要求するって……発想はどちらも同じなんですよ……
(ていうか『人間の方が締め付けは緩やか』って書きながら思ったけど
マジヤベェな環境ではそうでもないわ
むしろ……行動と睡眠も搾取されている分……家畜以下では……
しゃ……しゃち……く…………)(ナツキさんはテレビ業界暴露Youtuber
元テレビD さっきーさんのチャンネルを応援しています背筋が凍るようなひでぇ話ばかりなんだけど
語り口が面白すぎて笑ってしまう……
けど恐怖体験すぎて笑えない (;ω;)
笑っちゃうのか泣いちゃうのか脳がバグる)そして、そんなオフィスへと続く道のりもそうですね。
現代の人は生まれたときから、経済を回す一員となることがもはや無意識で期待され、そこへ向けて育てられていきます。
いろいろ混乱してるためにちゃんと育てられてない感もあるんだけどw
一応は、大人になってから税金年金を納められるように、その働きをできるように、という目標もあるもとで、各種教育が施されていきますよね。労働は尊いものです、誰かの役に立ち喜ばれるのは嬉しいことです、
生きるためには、暮らすためには、やらなければならないことだってあるでしょう。しかし、そのために必要な労働とは、一体どの程度なのでしょうか?
終わりを知っている人、区切りを知っている人は、
……充分を知っている人は、誰かいますか?どうして、生産力はどんどん上がっていくのに、
それでできた余裕は、休む時間でも、人生を楽しむことでもなく、さらなる生産力の向上へと注ぎ込まれていくことが前提になっているのでしょうか?労働をしたい人たちがたくさん働けるのは喜ばしいことですが (ご健康はどうぞお大事に)、
そうでない人、労働自体はしたいけどもっと少なくても充分満足、そういう人たちまでもが物理的に可能な限り駆り出されていくのは、一体なぜなのでしょうか?かつて人々が農耕という知恵を得る前、自身と仲間たちの空腹を満たすために働く時間は半日ほどだったと言います。
その集団の中では、子どもたちも労働力として頭数に入っていた一方、仕事の内容は理解の難しいものではなく、そして幼い子どもを育てている母親の負担は減らされていたことでしょう。どうして人類は、文明が進み、食料を得ることが確実に、そしてラクになるほど、
必要な労力が増え、要求される能力は高くなり、
困難な労働をしかも長く求められてしまうようになるのでしょうか?そしてわたしたちは、生まれてからいつの時点で、こういう生き方を自ら望んだのでしょうか?
「諦めた」のではなく「受け入れた」のでもなく、
「望んだ」のでしょうか?生産力を提供する能力が低い人も、
家畜とは違い、処分されることはありません。でも、人知れずに脱落していきます。
こういった人たちを世の中へ戻すための支援がありますが、これが実行されるのは、人々の幸福のためなのでしょうか、それとも、
「労働力として (都合よく) 使えるようにするため」なのでしょうか。……幸福に労働できるのが、最高なのですが……
先にも述べましたが、労働には苦しい側面もあるけれど、決してそれだけではないはずなんですよ、本来は。労働自体が幸福ではなくとも、せめて、人生に幸福を感じられる余裕があれば。
人類は、何を目指して進化してきて、
そして何を目指して、さらなる進化へ向かって行こうとしているのでしょうか。人々が、労働力として……
……奴隷として、集金装置として扱われているのなら、
動物たちへも同じ発想で接してしまうのは、仕方がないことだと思ってしまいます。それは、虐待されながら育った人が子を育てる側へ回った際に、同じ扱いで子へ接してしてしまいがちであること……
それしかできなくなりがちであること、
ときにはそれが正しいとすら思ってしまうこと、
そのことと似ています。動物の奴隷扱いがやめるべきものであるなら、
その前に、もっと近く同胞である人間たちの奴隷扱いが見直されるべきであると、
そのように考えます。