- 牛乳の生産と動物愛護 [前半] 生産過程
- 牛乳の生産と動物愛護 [後半] 人々の意識、精神性
- とはいえ、人間たちを責める気にはなれない
- みんな揃って経済の奴隷
- 人の心と経済合理性
- 動物たちの喜びと繁栄に寄与できるのも、また人間である
- 人々には未来を創る力がある
- 本当の“いただく”とは、差し出されたものを受け取ること
- 余談:超根本的な疑問
- とはいえ、人間たちを責める気にはなれない
本当の“いただく”とは、差し出されたものを受け取ること
残りはおまけ気味のお話なのですが。
(でも長いし、ある意味一番大切なことだと思ってるんだけども……)
理想の協力関係ってどんなのだろうか
動物たちは (人に囲われていなければ) 人の力がなくたって生きていけますが、
人間は、人間同士の協力も、動物たちからの協力も、
得ないと生きていくのが難しいですよね。
近代では特に。
そんな中で、人と動物が……
なんなら人間同士が協力し合うために、
理想の関係性ってどんなものなのでしょうか。
現状を出発点とするにはあまりにも遠すぎる理想ではあるのですが、
下記のふたつのお話が、
その到達点なのかなと思っています。
「ほしい と どうぞ と ありがとう」
……昔、↑というタイトルの無料絵本が、インターネット上で公開されていました。
今はいくら探しても見つからないのですが……
内容はタイトルの通りだったと記憶しています。
「欲しい人がいて、『どうぞ』してくれる人がいて、『ありがとう』って受け取れれば、世界はうまく回っていく」
という。
途中には、仏教の「三尺三寸箸」のお話も入っていました。
死後の世界における箸は長くて、1メートルくらいあって、だから普通に使おうとしていては食事をまともに摂ることができないと。
そのために地獄の人々は、皆我先にと食事へ向かうのに、全くありつくことができないから、苛々して喧嘩も絶えないのだと。
一方天国では、箸が同じくらい長いのに、皆ニコニコ美味しいものを食べていると。
それは、皆それぞれに目の前の人へ「どうぞ」「あなたもどうぞ」をしているから、なのだと。
お話の結びは、このような感じでした。
「小麦を作るのが大好きなおじさんが、小麦を作って『どうぞ』してくれる」
「パンを焼くのが大好きなおばさんが、パンを焼いて『どうぞ』してくれる」
「そしてパンを食べるのが大好きな僕が、おじさんの小麦で作られたおばさんのパンを『ありがとう』って食べる!」
絵本はそこで終わっていたと思いますが、“僕”もまた、誰かに「どうぞ」を繋げていくのでしょうね。
……あれ、「そうして『どうぞ』していけば、世界にお金が要らなくなる」的な描写もあったかな……?
四半世紀近く前の記憶である上、当時はそこまで気に留めていたわけでもないのでちゃんとは分からないのですが、そんな感じの絵本がかつて存在していたはずなのでした。ネット上のPDFだけだけど。出版されてないからか記録が辿れないのよね……それともタイトルが記憶違いなのかな……
誰もが、自身の幸福の上に贈り物をして、
それで世界が回っていったら、素晴らしいですね。
本当の“いただく”とは、一致した心身から差し出されたものを受け取ること
とりあえず今回は牛乳をテーマに考えているわけですが、
「牛たちのことを思い遣るなら
人間は牛乳を口にすることはやめた方がいい」
のでしょうか?
そんなに杓子定規ではないと思わせてくれたのが、
書籍「アナスタシア」にあるこの記述です。
人は動物性食品としてミルクを摂ることもあったけれど、すべての動物から採るわけではなかった。
優しく、人懐っこく、自覚があるとされる動物、そして自分のつくり出すものを人にごちそうしたいという欲求が表れている動物からしか採らなかった。
例えば、家族の子どもか年輩の人がヤギや牛に近づき、乳房に触れ、その動物が急に逃げようとした場合、彼らは、人と分け合うことを欲していない動物のミルクを飲むことはしなかった。
それは、その動物が人間を嫌いになったという意味ではない。
その時のミルクに含まれる成分が、その人にとって有益ではないと、動物たちが彼らにも分からない方法で判断していたの。
アナスタシア ロシアの響き渡る杉シリーズ6 一族の書
「アナスタシアが語った人類の歴史>肉体を生かすもの」より引用
(編集で改行を追加)
そう、つまり、
「牛(動物たち)が自ら差し出したものなら、いただいてもいい」のですね。
そして小見出しにも入れた通り、
「本当の“いただく”とは、心から差し出されたものを受け取ること」
なんだなと、思いました。
さらには、この仕組みの奥深さに感動しました。
動物たちが何気なく嫌がったとき、そこには何かしらの望ましくない理由が潜んでいる、だなんて……!
生命の仕組みは、あまりにも多岐にわたり多様であり、人間になどとても把握しきれないほど奥深いものなのだなあと、改めて胸の深くを打たれる思いでした。
……と同時に、これっておそらく人間にも当てはまるのだろうなあと……
『何気なく嫌だったら、その先には進むべきではない』のだとしたら……
ということを考えると、人々の人生があまりにもすぎて、ちょっと怖くもなるのでした。
……だからって、「何気なく嫌」に従えばいいかと言ったら、多分それも間違いになっちゃうんですよね……
ほとんどの人はかなり幼い頃から「何気なく嫌」を押し殺しながら暮らしを成り立たせていて……
その積み重ねがあるのに、感覚を錆びつかせず、また狂わせずにおくことなんて、まず無理なはずで……
……みんなが、自身の自然と幸福の上に贈り物をして、
それで世界が回っていったら、素晴らしいですね。
無料や無抵抗が奪われていく段階
とはいえ、その実現が難しいことは否定できません。
こういった習慣で暮らしていくためには、人類全体で見たときの精神性が低すぎるだろうなあということも思います。
8割の人が上記の精神性で生きることができたとしても、2割の人が……なんなら1割でも、その半分でも、それ以下の人数ですら、
彼らが悪意や無関心で接すれば、
与える側の与えたもの、生産したものは……ときには与える能力、生産力までもが、無きものとされていってしまうからです。
軽いところでは
「使わないけど無料だからもらっていく」、
重いところでは
「山を切り開いてソーラーパネルを敷き詰める」、
など。
そういうことをする人は決して多数派ではないけれど、人類全体で見たときそんなことが当たり前に起こってしまうような状態では、
とてもじゃないけど「どうぞ」で回す世界は作れないですよね。
「どうぞ」することで「どうぞ」していない分まで持っていかれて、しかもそれが適切に使われることなくゴミになるだけ……
そんなことが続けられていては、どんなに気前の良い世界でも枯渇してしまいます。
実際にはもっとひどいことも発生しているし、なんならシステムの一部に組み込まれて再生産されているしなあ……
自然環境に対する破壊や汚染が深刻さを増していく以上、いずれは世界全体で向き合わなければならない問題ではありますが、
まずは小さく、個人や小さな集団の規模で「どうぞ」する、「どうぞ」できないものは無理しない、を始めていくのが最適解になるんでしょうかね。