- 牛乳の生産と動物愛護 [前半] 生産過程
- 牛乳の生産と動物愛護 [後半] 人々の意識、精神性
- とはいえ、人間たちを責める気にはなれない
- みんな揃って経済の奴隷
- 人の心と経済合理性
- 動物たちの喜びと繁栄に寄与できるのも、また人間である
- 人々には未来を創る力がある
- 本当の“いただく”とは、差し出されたものを受け取ること
- 余談:超根本的な疑問
- とはいえ、人間たちを責める気にはなれない
動物たちの喜びと繁栄に寄与できるのも、また人間である
……と、だいぶ暗い語り口になってしまいましたが
前ページのように動物たちへ寄り添った事業をされている方々はいらっしゃいますし、
「動物たちへの扱いがさすがにひどいよね、良くないよね、やめよう (´・ω・`)」
って変えていこうとする動きも世界各国から出てはいるようです。(もちろん人間たちに対してもですw)
前述した豚さんたちの檻 (ちなみに「妊娠ストール」と呼ぶそうです) も、
日本ハムさんは廃止を決定したらしい。
まあ
「それでも結局食うんだろ」というツッコミは、
できてしまうわけですが……
何もかもを一気に変えるのは難しいです。
一歩ずつの前進で良いのだと、
早急でなくとも前進があることは喜ばしいのだと……
そう捉えたいです
培養肉の研究も進んでいるので、
これが実用化されれば、一方的に殺される苦しみを味わう動物はどんどん減っていくはずですし……
「経済動物 (特に豚) というものは、人間に食べられることで繁栄できたのだから、畜産業を否定するのはおかしい」
という考え方も見たことがありますが、
自由がなく、搾取と苦しみを与えられ、その末に殺されていくだけな運命の中でただ数を増やすことが、本当に繁栄と呼べるのか……?
という点を、ついつい疑問に感じてしまいます。
視点次第なのかなあ……。
今日の日本国では出生数の低下がよく言われますが、
ただ頭数だけ見れば、ここ150年くらい……ほんの数世代の間に、人口はものすごい増えてるんですよね。
2021年の人口は1.257億人だそうですが、
江戸~明治時代の頃の人口は3300万人ほど、
第二次世界大戦の頃には8400万人ほどだったそうです。
寿命が伸びたことによる影響が大きいでしょうし、
未来予測ではどんどん減っていきますが、
それでも明治維新の時点を基準にすれば
かなりの人口だと言えます。
「数が多ければ繁栄」と言えるのなら、
今の日本は、ものすごく繁栄していると言えるわけです。
文明の利器もたくさんありますし。
しかし、便利であるにも関わらず貧困があり……
特に、一番守られなければいけない世帯であるはずの母子家庭の貧困が深刻で。
仕事はAIに奪われると言われ、経済は少子高齢化や諸外国との競争によって破綻が危ぶまれており、「できるなら外国へ逃げた方がいい」と勧める人がいる。
自殺者は一応減っているものの、それでも毎年2万人ほどがこの世を去る選択を完遂していて、その何倍もの人がうつ病を患い、その人数は年々増えている。
「繁栄している」と……
うーん
言えないことはないでしょうが、
やっぱり、「繁栄」と呼ぶならその土台に
ある程度の安心と幸福感、
そして何より“未来への明るい展望 (を感じられる今現在)”が、
必要なんじゃないかなあと思ってしまうのでした。
……野生の動物たちは、何を感じて生きているんでしょうね。
常に死と隣り合わせの彼らが、安心感を持つことはあるのかどうか……
繁栄の土台に安心感が必要で、野生動物が安心感を持つことがない場合、どんなに殖えても繁栄とは呼べないわけですが……
でも、やっぱり、
野生で殖えることは「繁栄」と呼べるけど
檻の中で殖えることは「繁栄」と呼べない気がしてしまうのです……
安心感ではなく自由がキーなんだろうか……?
うーん
わからん
檻の中というか、人が管理してること自体は、繁栄を損ねないと思うのですが……
バナナとか桜(ソメイヨシノ) はそのほぼすべてが人の手で植えられたものですが、繁栄してる……! って感じるので……
動物たちのような苦痛や犠牲がないからかな……
……あーーー
「生命の核がある部分で喜びを伴った交流を持てる」
ってところが、重要なのかな……
桜を見たとき、桜の木自身を美しいと思うもんね。
落ちた花や葉っぱもいいけど、まだ生命の息づいている、樹木自身が何よりも。
そうやって人々の目を心を向けてもらえるという交流。
バナナは樹木からは切り離されているけど、実(種)って植物にとって新たな生命となる特別な部位だから(※)、それに対して美味しいとか嬉しいとか感じることは交流と呼べるのかもしれない。(※市販のバナナは種ないから植えても新しい木にはならないけど。そこは植物の本能)
対して動物たちは、生産物を受け取った人間との交流が持てないよね。
牛乳は牛乳であり、牛ではない。
牛乳を喜んでも、感謝しても、それは牛には届かない。
代わりに牛へ直接触れる酪農家さんが牛を可愛がり、感謝してくれても、経済の流れへ乗せるためにはどうしたって量産を前提としなければ難しいから、一頭一頭としっかり交流するのは難しい。学校の先生がどんなに思い遣りに溢れた人でも、家族間で作れるような愛情を子どもたちに向けるのは難しいのと同じ。一対多、そして時間等の制限が厳しい中での関係というのはどうしたって、そうならざるを得ない。
ましてや、市販の牛乳は消費者の元へ届くまでにさらにさまざまに機械や人の手が加わっていて、また一頭だけでなく何頭もの牛の牛乳が混ぜられているのだから、交流どころか一方的な気持ちを向けることすら難しい。
そして何より、こんな風に「どうしたら牛に十分な感謝をできるか、交流を持てるか」と遠くから懸命に考えるのはとても馬鹿馬鹿しいと思える。どんなに努力したって、牛の元へ赴いて直接「分けていただく」をしたときの交流には敵うわけがないから。
牛乳をくれた牛との交流が難しいのに、肉なんてもう、その可能性が完全に絶たれている。
肉は肉である。牛肉という物であり、豚肉という物である。物体であり、彼らの生命はもう損なわれている。
牛や豚の一部であり、そこへ分類されるのに、彼ら自身ではもうない。交流を持つことはもう叶わない。
……という感じで、繁栄しているか否かの分岐は数だけでなく
「(喜びのある) 交流を持てる状態にある」が前提に入ってくるのかなあ。
これなら野生動物も当てはまるよね。
彼らにも家族や友達との交流はある。
……この考えで行くと、人間って面白いよね。
人間は物の生産だけじゃなくて、言葉や芸術によって多様な精神性を表すことができて、そこに宿った気持ちによって
近しい関わりがなくても、生命が尽きても、“交流”をできる。
感覚の域を出ないし、思いついたばかりでうまくまとめられてないけど……(公開の直前に勢いで書いてる)
とりあえずは、そんな感じかなあ。
という感じで「繁栄とは何か」って思考の突き詰めはちょっと甘いんですけど、
『人間は動物(生き物)たちを深く苦しめることができるけれど、
彼らの喜びと繁栄に深く寄与できる存在でも、またあるのだ』
ってことを、わたしはしんじてるよ……