「水からの伝言」について思うこと

「雑学・好奇心」カテゴリに入れたかったけど
疑似な科学のお話だからそちらへ入れるのはやめておくかぁとなって
スピリチュアル属性にw

 

内容について

肯定派と否定派の温度差が激しい「水からの伝言」

「水からの伝言」とは、

「水に『ありがとう』などの『よい言葉』を見せると、きれいな結晶ができて、『ばかやろう』などの『わるい言葉』を見せると、きたない結晶ができる」というのが「水からの伝言」というお話です。

という内容の書籍です。

『「水からの伝言」を信じないでください』
というページから引用しましたw

(→ 総合ページはこちら https://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/md/list.html )


様々な観点から、しっかりとまとめられています。
情報収集において、能あるアンチはある意味一番信用できるw

……という、熱烈な否定派が生じていることからも分かるように
このお話は多くの人達の心を惹きつけている一方で
「そんなことがあるわけない」「科学的ではない」という強い反発もたくさん招いています。

同じく上記のページから引用。

これまでの科学の知識から考えれば、水が言葉の影響をうけて結晶の形を変えるということは、けっして、ありません。 本や写真集には、実際に試してみたという「実験結果」がのっています。 でも、これは、実験する人の「思いこみ」が作りだした「みかけ」だけの結果だと考えられます。 ただの「お話」と思って聞くならいいかもしれませんが、事実だと思うのはよくないでしょう。

科学に「ぜったい」ということはないはずなのに、「水からの伝言」が本当でないと言い切れるの?

科学も人間の知識の一つですから、なにかが「ぜったい」にわかるということは、ありません。

しかし、科学のなかには、長い時間をかけて、とてもよくわかっている部分もあり、そういうことについては「ほぼ確実に正しい」と言いきることができます。(中略)

逆に、ほぼ確実に正しいことがわかっている科学の事実と比べることで、「ほぼ確実に正しくない」と言いきることができるような考えもあります。(中略) 「水が言葉の影響を受けて、結晶の形を変える」という考えも、同じように、ほぼ確実に正しくないと言いきれるのです。

(「ほぼ」という表現を抜いた断言をできないあたりに真面目な科学者を感じて好感が湧いてしまうなぁw)

疑似科学を科学的に考える「Gijika.com」さんでも最低評価ですね。

 

個人で実験している人達もいて、その際には結晶ではなく
「ありがとう」「ばかやろう」「(無視、何もしない)」という3種類の言葉を
ご飯やお花にかけて観察しています。

結果としては、
「やっぱり『ありがとう』のものは状態が良い!」が出ることも
「全部同じ!やっぱりインチキだった!!」が出ることもあるようです。

という感じで
信じる人と否定する人の温度差が激しいこのお話なのですが、

個人的には、『そういうことは本当にあるだろう』と思っています。

しかし、同じくらい強く
このお話は科学ではない』とも思っています。

というのも……

自分の考えを説明するためなのでどうしても、
「この現象自体は存在している」という体の語りになってしまうのですが、

この現象について

観測者(の思い込み等) によって観測結果が変わることそのものが、この現象の実在を示している

と、考えているからです。

だが、科学ではない。

物理的に同条件を揃えても同じ結果を (規定の割合以上で) 観測できないのなら、それを科学と呼ぶことはできません。
だから、少なくとも現状の科学と呼ばれるものではありません、あり得ません。

(それ以前に「論文もデータもないから科学の舞台に乗っていない」というのがあるようです。はえ~~~なるほど)

水は何を映し出し、伝言しているというのか?

「物理的に同条件を揃えても同じ結果を観測できないのなら」と書きましたが、
この実験において「同条件を揃える」ということが、そもそも不可能だろうと考えています。

というのも、この実験において一番重要な条件はおそらく実験者(の意識状態)だからです。
それも、現状の科学には乗せ難い、精妙なレベルの。
そんなものを物理条件として揃えることはできませんw

実験者が「水からの伝言」を受け入れていたり、リラックスしていたり豊かな感受性で物事を見つめていれば水はそれを反映し、
実験者が「水からの伝言」を否定していたり、緊張感を持っていたり科学の理論に縛られているのなら、水はそれを反映するだろう、
ということです。

本当に観測されている……観測できるのは、
水ではなく人間の方
なのかもしれませんね。

「水からの伝言」というか「自らの伝言」なのかもw

そんなことを考えていたらなんとなく、幸運な人の調査を思い出しました。

ナショナル・ジオグラフィックが、街頭である実験を行った(上の動画)。まずは、道行く人々に対して、自分を幸運だと思うか、不運だと思うかを尋ねる。次に、それぞれに新聞を手渡し、この新聞に載っている写真の数を10秒以内に数えることができたら、20ドルの賞金をプレゼントすると伝えたのだ。

すると驚くことに、「幸運」な人々は、「不幸」な人々と比べて、賞金を持ち去る人が3倍多かった。


結果を変えているのは人間の意識状態であって、眺めている新聞には違いがありませんね。

水の実験もいっそ、水の方ではなく見る人によってどんな結果が出るかの方を調べてくれたら面白いのでは…… なんて、無茶なことを思ったりしましたw

ちなみに、見落とし等の観点による

実験する人の「思いこみ」が作りだした「みかけ」だけの結果だと考えられます。

という可能性に関しては排されるべきではあるんですが、
「観測者の思い込みが反映されないように撮影しよう」のために手段を講じたとしても、あまり意味をなさないかも……と思っています。

……自分の見立てが合っているとしたら、
水の姿は観測している最中にも変わっていっている可能性があるので……
観測者が目を向けることで、そのまなざしから影響を受けている可能性があるので。

量子力学の二重スリット実験に似ていますね。
電子は観測していれば粒になり、そうでなければ波になる。
電子の状態を決めるのは観測の有無であり、電子自身が固定の答えを持っているわけではない、と。

水は電子よりも、変化が遅いだろうとは思いますが。

水は人の言葉を理解するか?

しないと思うのですが……

するにせよ、しないにせよ
先に記述した

実験者が「水からの伝言」を受け入れていたり、リラックスしていたり豊かな感受性で物事を見つめていれば水はそれを反映し、
実験者が「水からの伝言」を否定していたり、緊張感を持っていたり科学の理論に縛られているのなら、水はそれを反映するだろう、

が、本質だと思っています。

水は人の心を反映する

ただそれだけ。

「水が人の心(意識状態)を反映する」という表現は、ピンと来ないかもしれませんが……

例えば、「太鼓」という楽器があります。

仰々しく言わなくても、みなさんご存知ですよねw

この楽器を、荒々しく叩くと荒々しい音が出ます。
繊細に小刻みに叩けば、それに応じた音が出ますね。

しかし、太鼓がリズムや強弱といった音楽を理解しているわけではありません。
物理法則に従いつつ人間の叩き方に応じているだけです。

あと、車の運転などにも出ますね。
繊細さに欠ける人の運転は雑に揺れたりしますし、
穏やかで安定した人の運転はスーッと滑るように進みます。(これも物理法則に従っているはずなんですけど、同じ道を同じ車で大して変わらん速度で走ってもそういう違いが生じるの不思議すぎる……)

こちらももちろん、車が何かを理解しているわけではないです。

太鼓も、車も、それ以外のあらゆるものも、
ただ、人からの働きかけへ応じているにすぎません。

今挙げたものに関しては、人が働きかける際にその意識状態だけでなく「動作」、扱う「技術」も関わってくるわけですが、
水に関してはもっと直接的に意識状態を反映するのでしょう。

「水鏡」という単語が示しているのは、物理的な映り込みだけではないのかもしれませんね。

そして人間は、その鏡に対して
「これを覗き込むと美しい人が見える」「何言ってんだ普通の人だろう」みたいな盛り上がり方をしているのかも、と考えるとw

こういった反応について、本当は、物だけではなく人間自身だって体験しているはずです。
同じ空間の中に慣れた人たちがいれば気が緩みますし、偉い人が訪れればピリッと緊張が走ったりします。
やってきたのが好きな相手だったり嫌いな相手だったりすると、この反応はより分かりやすく自覚できるはずですw

本当は、自覚できない範囲でも、影響を受け反応が生じてはいるのですが……
自覚できないから、分からないですねw

人間が自覚できる範囲の反応だと、その半分は自分で作り出している、という側面もあります。

そう、人は、外部の刺激から一方的に影響を受けるだけではなくて
「どんな影響を受けるのか」自身の中で創り出す力も持ちます。

なので、
「ありがとう」「ばかやろう」に対する反応についても、
水が言葉を解釈しているわけではなくて
人間がその言葉を見聞きした際に生じる意識状態を、映し出しているのでしょう。

(言葉の成り立ちとして、表現したいものに適した形や響きが文字や音声になっていった側面もあるでしょうから、言葉そのものも全くの無関係ではないのかもしれませんが)



余談なのですが、先のアンチページ (呼び名…) にあった

どんな言葉が「よく」で、どんな言葉が「わるい」かは、私たち人間がいっしょうけんめいに考えるべき、人の心についての大切な問題です。 水に答えをおそわるような問題ではないはずです。

についてですが

良し悪し……特に見た目のそれは大部分が
考えるものではなく感じるものであり、

何も教わらなくても、なぜだか判断できますよね。

この心の機能も、面白いなぁと思います。

とはいえ、良さ、美しさの判定には
各々の好みや感覚、そして知識や経験が関わってきますから、

「良い、美しい」がなぜか分かるけれども、でも共通の認識で統一することはできない……
また、「良い、美しい」に属さないものを好む者もいる……
というのがまた、面白いなぁと思います。多様性……!

科学は統一できる認識へと向かっていきますけれども、
それが叶わないことが世界の奥深さを作っていて、
良さ、美しさの一部でもあるという……

という考え方(感じ方)についても、
好ましく受け取ってくださる方も
嫌悪感で受け取られる方もいるのでしょうね。
わたしという一個人の中にも両方があります。

唐突に箸休めの脱線をする

おかぁちゃんが「水からの伝言」を盲信してて呆れた、という記事を見つけたのですが


その中のやりとりがヒドすぎてわろた

3: 名無しさん@おーぷん 2016/06/06(月)19:24:16 ID:ojQ
え?イッチは水に言葉かけへんの?

5: 名無しさん@おーぷん 2016/06/06(月)19:24:26 ID:Isf
>>3
かけるわけないやんバカか

8: 名無しさん@おーぷん 2016/06/06(月)19:24:53 ID:ojQ
>>5
じゃあ誰に言葉かけんねん
水以外に友達おるんか?


おみずはwww
ともだちなのwwwww

わろた

実験の周辺に関すること

どう発表したら良かったというのだ

それにしても……

なんだかなぁ。

「水からの伝言」には、
「非科学的」「疑似科学」という非難がやって来ているわけだけど、

んじゃぁどうやって発表したら良かったんや……
という点に、めっちゃ疑問を感じます……

すごく面白い話だから「黙ってるのが良かった」はもったいなさすぎると思っちゃって……

だって科学じゃなくても研究は研究じゃん。
科学じゃなくても観測結果は観測結果じゃん。

なのに科学として発表しなくても
「こういう研究をしてみたら、こういう観測結果が出たよ!」って言ったら
それは……「科学的な説明だ」って、認識されてしまうよね……?

科学寄りの側には「『水からの伝言』(等)を信じてしまう層は科学リテラシが低くて嘆かわしい」って想いがあって、
確かにそれも否定できないんだけど、

研究結果 == 科学、っていう前提で物事を受け止めちゃう頭の固さというか、科学信仰の蔓延もどうかと思ってしまう……自分がおる……

関連記事

わたしの考える世界三大宗教の第二位は科学です。



「そっかそういうこともあるんだね!」
「科学ではないけど面白いね!」
みたいな柔軟な受け止め方をできた方がきっと世界は面白いし楽しいし、
視野が広がって結果的に、科学の発展も進みそうな気がするんだけどなぁ。

いやでも、物事はやたらめったら拾わない方がいいのか……
頭固い人は引き続きそのままでいていただいて、
科学リテラシが低い人は無理に学ばなくてもいいのかもしれない……

いやなんだろう、言葉にすると「あかん」なんだけれども
なんというかこう 物事の加減というか ががが

正しいか、間違っているかの影にある「心を動かした」

そうやって、大勢の人がこの話について
「正しいか、間違っているか」の観点で眺めているわけなんだけど

実はそれと同じくらい重要なのが

そんなにも大勢の人の心を、
こんなにも深く揺さぶり、
強く信仰や否定に突き動かしている

ということだと、思ってたりします。

たかが一つの実験結果に過ぎない内容が、
なぜこんなにも大きく人々の心に影響力を持ったのか? って。

この現象の真偽がどうであろうとも、
人の心を揺さぶっている点についてはきっと、何かしらがあるのだろうと思うのです。

人の心を動かすテクニックというものも存在するから、
影響力が大きければ必ず何かある、というわけではないんだけれども……

「水からの伝言」は本当に淡々と観測結果を発表しているだけなはずなので。

と言いながら原著が手元になくて本当にそうか不安になったので、
内容が類似と思われる「水は語る」を確認してきましたw
昔どちらか読んだと思うんだけど、内容全部忘れてるので改めて。

パラ見だけど、
「この現象はある」という前提で語られてはいるものの
押し付けがましい表現とか洗脳しようみたいな意図は、やっぱり感じられなかったですね……

いやまぁわたしの読みが完璧ということはないし、
前提で語る、洗脳するって手法もないではないんですけれども

てか、先に

この実験において一番重要な条件はおそらく実験者(の意識状態)だからです。

と書いたわけですが、
書籍の中にも同じ内容あったわwww

「第1章『水からの伝言』とは?」内
「結晶に影響を与える“撮影者の心”」にて

この実験における撮影はとても難しいけれど手伝ってくれる人を探そう、となり、
二人の学生を雇ったところ、下記の結果が出たそうで。

写真を勉強している学生の場合、テクニックがあるために、うまく撮ろうという気持ちが素人よりも強いためか、美しい結晶はなかなか撮影できません。

 いっぽう、美術の勉強をしている学生の場合、写真撮影の技術はありませんでしたが、その分だけ自然を素直に観察しようという気持ちが結晶写真の撮影に功を奏したのか、美しい結晶をたくさん撮影してくれるようになりました。

 テクニックを持っているかどうかは、結晶写真の撮影には無関係であることが、そのときわかりました。そして逆に、“素直に水に教えてもらう”という気持ちが、撮影の鍵であることを知りました。


そのすぐ後にはこんな内容も。

 あるとき、私は体調を崩していたのを無理して結晶の観察を続けたことがあります。そうしたら、なぜかそのときに限って、美しい結晶がまったく観察できなくなったのです。その当時は、観察者の体調が実験に影響するとは考えていませんでしたから、これはどうしたものかと実験上(冷却の方法や観察の方法)の問題点があるのではないかと思っていました。

 ところがその後、佐藤君が私に、「石橋さん、不思議なことに、体調が悪いときに無理して観察をすると、よい結晶が撮影できません」と話してくれました。実験を行なううえで、余計な先入観は実験の妨げになるので、私が以前体験したことは、佐藤君に伝えていませんでした。


自然現象へ働きかける者の状態って、やっぱり大事なんだと思うのです……

信じなくてもいい話ですが……

一時期、毎朝薪ストーブに火をつける暮らしをしていたのですが
集中力が著しく安定しない日はどうしても火がつかないのですね。
薪を組み直してもダメ、放火のお供☆灯油をぶっかけてすら全然火がつかないというw (放火のお供言うなww)
一旦諦めて、しばらく精神を整えるとアッサリ上手くいくので不思議でした。

自然に近いところで生きている人には、こういう……科学だけでは説明しきれない体験や感覚というものが、当たり前にあると思うんですけどねぇ……

いやこの体験だと「集中力が散漫すぎていつもの動作ができていなかったのだろう」とか説明のしようはあると思うのですが こう

本当は、いわゆる自然に近くなくてもあるはずなんですよ。
「ある人が来店すると、その後すぐにお店が混む (交通状況や天候等に関係なく)」とか、不思議な経験則っていろいろあるじゃないですか。

それが間違っていることだって、もちろんあるのですが……

世界は理屈で把握できるほど単純じゃなくて、
だけど人間たちは便利に楽に暮らしたいから
目に見えるいろいろをがんばって把握&利用してきて、

それは素晴らしいことなんだけど
そのせいで「把握できないことは全否定」になってしまうのだとしたら……
その部分は、素晴らしくないことだなって……

いやわたしだって思いますよ、

科学でないものを科学として捉えるのは良くない
きちんと把握できていないものの扱いは要注意だ
科学と呼べない以上個人の信仰なのだから他者にどうこう言う必要はない
子どもへ教える際には気をつけなければいけない

とか、そういうのは。

そしてまたしても
「科学信仰ぐぬぬ……!!」に、
帰ってくるのでありましたw

疑似科学信仰の裏には、科学の信仰があると思っていて……

科学信仰が絶対的でなければ、疑似科学の信仰も絶対的にならんやろと……
「把握できないことは全否定」の裏には
「把握できた(と思える)ことは全肯定」があるわけですよ
そして全肯定っていうのも、思考停止と知性低下に繋がるあんまり良くないものだと思ってるわけです

いやでもそんな
なんでもかんでもきちんと受け止められるほど人には余裕がない……
そして、人の心には絶対的に安心できる信仰が必要…………

むむぅ…………

科学の世界てしゅげぇよなァ

わたしからすると
「能あるアンチは一番信用できる」
「様々な観点からしっかりとまとめられている」だった
「信じないでくださいページ」なのですが、

見る人によっては「甘い」みたいで……

要約すると

「四の五の言わずに『そんな現象は存在しない』を証明する実験をすればいいじゃん」という内容です。

(先の「論文もデータもないから~」は、この記事についている最初のコメントから拝借しました)

(「そもそも科学の舞台に乗ってないから、反証も何もできない」という事情もあるとかないとか
なるほどね、科学の仲間入りをしていないものに科学的反証をするのは変というか「告白されてもないのに断るのってどうよ」みたいになっちゃうのね!(たとえがひどい)

内容についてはともかく、
表現に関するツッコミも入っていて……

ひええ言われてみればそれもそうだね
すごいな、科学の世界 (というかツッコミ) こえぇな……!

「実験おもしろ科学おもしろー!」とか言いながらも
テキトーに聞きかじって
テキトーに考えて
テキトーに書き殴ってるだけの
テキトー人生なので

「ここに加わるのは無理だなぁ」という感想しか湧きませぬw

論文とか学会とか参加して、人類の知識を積み上げて下さってる人たち、しゅごいね……
鋭いツッコミがバシバシ飛んでくる緊張感とかわたしには耐えられないよ。

科学のすべてを信じているわけではないけれども、
科学を積み上げてくれている人たちの働きが尊いってことは
科学よりも科学以上に信じていることたちよりも
さらにそれ以上の強さで信じてるよ……!

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