大切な話のされない世界
人様のお話を根掘り葉掘り聞き出しながら思うのは、
優しくされるのに慣れていない人が、結構いるんだな
ということ。
肯定してもらう、
認めてもらう、
受け入れてもらう
という体験が、
あまりにもなさすぎる。
それ以前に、
話をしっかり聴いてもらったことも
ない人がほとんど。
それはつまり
しっかり話した体験もほとんどないということで、
そういう話に伴った
「こんなこと聞かせてごめんなさい」
という要らぬお詫びを何度言われたか知れない。
(いや、要るのかもしれない、
わたしと遠い世界では!)
(わたしが歯がゆい思いをしているというだけで、
言いたかったら言っていいのですよ)
仲のいいパートナーがいようとも、
家族の関係が良くとも、
友達と長年の付き合いがあろうとも。
大切な話をした経験も、
それを受け入れてもらった体験も貧しい。
話を聴ける人が増えない
そうなってしまう理由として、
- 聴いてもらえる場面が少ない
- 聴ける人が少ない
を感じている。
詳しく述べると、こういうハードルがある。
●聴いてもらえる場面が少ない
- 話を切り出す敷居が高い
- 「こんなこと言ったら嫌がられるかも」という恐怖
- 「こんなこと言ったら迷惑がかかる」という遠慮
- 言おうと決めても、その話題に持っていくのが難しい
- いざ切り出せても、しっかり話し合うに至れない
- 説明がうまくできない
- 説明がそれなりにできても、相手に理解できる話ではない
(聴ける人が少ない)
●聴ける人が少ない → 聴く側にその器量がない
- 真面目さや真剣さに耐性がなく、切り出されても冷静に聴けない
- 話を最後まで聴く忍耐力、知的体力がない
- 聴くこと (相手) より、何を話すか (自分) に意識が行ってしまう
- 話を聞いて理解できるだけの土台 (知識や体験、感情の揺らいだ思い出、それらを補う想像力) がない
という感じ。
特に障壁になっているのは後者、聴き手の度量で、
人の話を受け止められる人がほんとうに少ないなという印象。
(聴いてもらう体験が少ないのだから、
聴く側に回れる日が来ないのは
しょうがないんだけど……)
優しさの技術不足
でも、じゃあ、
聴く気がない人間ばかりなのかというと、
そんなことはない。
むしろ、
「何かあったら話してね!頼ってね!! 一生懸命力になるよ!」
という親切な人が圧倒的に多い。
そういう、善意の人が多くいるにも関わらず、
なぜ「相手の話を聴く」という、
単純で誰にでもできそうなことが成されないのか。
ここのズレを生むのが、
「優しさの技術不足」なんだな。
話の傾聴にかぎらず、
気持ちは充分以上に優しい。親切。
人のためになりたいとも、常々思っている。
しかし、それを実行する技術がない結果、
的はずれなことをしてしまう。
幼い子供が母親へ
虫をプレゼントする様に通じるものがある。
母親は、子の向けてくれた心自体は嬉しい。
しかし虫なんて欲しくない。それどころか迷惑ですらある。
それでも、子供を傷つけたくないので、お礼を言う。
子供は、苦労して採ってきたこんなにも価値ある虫が
喜ばれないはずはないと思い込んでいる。
いや、思ってはいない。
まったく疑っておらず意識化していないので、思っている自覚からない。
お礼されたのが母親からの譲歩である可能性には思いもよらず、
自分は親切をした人、母親は自分の世話になった人と認識して、
母親を喜ばせた誇らしさと達成感に満ちあふれる。
自信を深め、またやろうと思うかもしれない。
こんな子供と大人のエピソードだったら
微笑ましいの一言で終わるけれど、
実際には大人同士でもこのようなやりとりの場面は多々ある。
そして、幼子とのやりとりではないからと
「せっかくだが、それをされると迷惑なのだ」ということを正直に告げると
言われた方は衝撃を受けるのだ。
「そんなことがあるはずない」
そして人によっては、
「親切をしたのに受け取らないあいつはおかしい」
「感謝もできない礼儀知らずだ」
など、自分の未熟さによって招き寄せた言動であることを棚に上げて
すべて相手原因に転嫁することもある。
自分がした親切に対して
「人の親切は受け取るべきだ」
「感謝するべきだ」
こういったことを強要したくなったなら、
それは相手の喜びのためではなく自分の満足のためにやっていることだと言えるのだが、
その自覚はない。
こういう人たちは、気持ちさえあればいいと思っている。
いや、こうやって言葉にして問うてみれば
「そうですね、技術も大切ですね」と伝わることもあるけれど、
日常の中で、流れの中で、自分ひとりでそこへたどり着くのは、意外と難しい。
実践の中では、
「相手が喜ぶか」とか
「迷惑にはならないか」などの検討はあった方が良いし
「受け取ってくれたらそれも親切のひとつである」
「自分は間違っているかもしれない」という可能性もあるのだが
「自分は親切、優しい、正しいことをした!」で思考停止しているので、
その先の要素は思いもよらない。
そうしてまた、技術の足りない優しさで
相手の迷惑になりながら
「いいことをしている」という自認を深め、その後も繰り返していくのだ。
虫をプレゼントして自己満足する幼子のように。
相手の話をロクに聴かず(聴けず)、
それどころか要らないお節介をして相手に嫌がられてもなお
「いいことしたなあ!」と自分だけ清々しい思いをしているとは、
気付かずに。
親切は、心だけではなく
技術も伴って成されるのがよい。
それをできる人が増えたなら、
話を聴いてもらえる人も増え、
話を聴ける人も増えていって
物事はより適切に進むようになり、
世界に行き渡る優しさも増えていくことだろう。
補足
考えすぎて
「何が正しいか分からない!」
「何をしても迷惑になる気しかしない」で動けない人は、
技術をつけることよりも
その親切を行動に移すことが課題ですw
量と質なんよね。
量を繰り出すのが得意な人は質を上げるのが苦手だし
質を常に考えちゃう人は量を増やすのが苦手。
質派だって最初は間違うかもしれないけど、
成長は早いしある程度のしきい値を超えたら精度も格段に上がるはずだーーーーー
勇気ーーーーー
がんばれ~~~~~
(と、同じ課題を持つけどあんまり頑張ってない人から無責任な応援を送るw)