科学とスピリチュアルは未来永劫 相容れない

科学!!
しゅき!!!!! (論文読めないむじかし話わかんないけど)

スピリチュアル!!
しゅき!!!!! (靈とか見えないけど)

そんなハンパ者のわたくしではございますが、
どちらも好きであるからには、思うのですよ……!

『両者もっと仲良くしよ!! (;∀;)』

……科学しゅきしゅき勢はスピリチュアル馬鹿にしがちだし、
スピリチュアルしゅきしゅき勢は科学軽んじがちだし……

科学もっとスピ研究もしょ……
スピ……もっと……科学知ろ……

そんな想いのもと
『両者を結びつける方法はないんか……』と考えていたら、
理解できたのです!!!!!

『無理だ!!! (゚∀゚)』

と!!!!! ( ̥̥̥̥̥゜∀ ̥̥̥̥̥゜)

 

無理な理由① 科学とスピの扱う範囲が相容れない

具体的には、

  • 科学は物理的に観測できる範囲を扱い、
    スピは物理的に観測できない範囲を扱う

これですよ……!!

ほかにも、

  • 科学は客観
    スピは主観

  • 科学は物の世界
    スピは心の世界

  • 科学は他者との世界
    スピは自身との世界

  • 科学は結果を見る
    スピは結果を創る

なども言えます。

えっコレ水と油じゃね?
無理じゃね?????

無理な理由② スピが証明されると科学になる

理由①の時点で

『ムリじゃん!!!
もう100パームリ確じゃん!!!(;ω;)

だったのですが、

もっと無理な理由がコレですよ……!

_人人人人人人人人人人人人人人人人_
> スピが証明されると科学になる <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄

たとえば 「瞑想」「マインドフルネス」

わたしの中でこういうのは世間様からは
 スピ & 胡散臭い & 信用ない
カテゴリに放り込まれているやつ認定だったのですが

なんか気がついたらいつの間にか
ビジネスパーソンお勧めスキル(むしろ必須)みたいになってて
科学的(医学的)にも有用性が証明されましたー!
みたいになってて……!

『えっ 君たちバカにしてたんちゃうん』と
すっかり置いてきぼりを食らった気持ちに……

そして気がついてしまったのです……

スピが証明されると科(略)

そして引き続き、

「科学で証明されたものは科学、
スピはそれ以外」

というカテゴライズは続くのです。

無理じゃね!!!

無…難しい理由 スピも科学も、その枠を超えにくい

ごめんこの段落
科学派には読めないかもしれないんだけど
スピ派には理解できないかもしれないんだけど

その枠を超えられるように書く技量はないから
書きたいように書いていくよ



「パワーか、フォースか」という書籍の4章に、「人間の意識レベル」についてが記述されています。


その内容をPDFにまとめてあるURLを見つけましたので、ご紹介しておきます。


これによれば、
科学と根拠、理屈の世界に住んでいる人は
意識レベル400、理性の世界に生きている、ということになります。

意識レベル 感情 視点 注釈/現象例
400 理性 理解 意義 本質のみへの関心

 

(とりあえず理性レベルだけ抜き出しましたが、
周りのレベルと並べて眺めてこそなので
よろしければ一度リンク先を参照してみてください)

……で

理性レベルの詳細な解説へ飛んでみると、
そこにはこのように書かれています。

※改行の調整と太字・下線は編集で追加

このレベルの短所は、概念や理論についつい夢中になり、「木を見て森を見ず」の状態になってしまうことです。

このレベルでは結局、基本的なポイントを逃してしまいます。
理性を働かせること自体が「最終ゴール」になる傾向があります。

「理性」は、論理的な方法論によって支配されている機械的(非人間的)な世界では高い効果がありますが、人間および人間関係の問題を解決する能力はありません。

「理性」は、人の意識が、より高いレベルへ進化することに対して最も大きな障害になります。


理性で扱える範囲は実は限られているのだけれども、
物事が細部まで明瞭に見え、把握できる実感を持てること、
そして根拠があり、理性を通じて他者と見解を共有できるという安心感も伴うことから
理性の世界を絶対的としてしまい、
その外にあるものが見えなくなって(見なくなって) しまって、
世界の一部がその人の中から失われるため、先へ進むのが難しくなってしまう……

と、そういうことでしょうか。

理性に限らず、体験したことのない意識レベルの境地は見えないのですが……
高い方は特に。

それでも、高いレベルの人が大勢いたり深い関わりがあればおぼろげながら見えますから
理性を超えた力の流れがある世界を認めやすいのかもしれないのですが。

現状の人類は、8割5分が200へ届かない“フォース”の住人だそうですから…………

200以下のすべてのレベルは、個人にとっても社会にとっても、どちらも生きていくうえで破壊的です。対照的に、200を超えたすべてのレベルは、建設的なパワーの表現です。200というレベルは、フォース(偽り)とパワー(真実)の領域を分ける決定的な分岐点となります。

(前述の書籍4章始めの方より)


だそうですから
400でもかなり高いレベルなんですよね。
人口の8パーセントですって (なおそれを超える人は4パーセント)。

※前述の書籍、5章冒頭より。
一応は年々上がっているようなのだけれど、まだ8割フォースではあるだろうなぁ

だから400レベルは、ますます自分の見ている世界が、自分に見えている範囲が、
世界の正しい姿に思えてしまうのでしょうが……

んんんんんん説明が難しい
「思える」とか「見えない」とか「正しい」というより、ホントに「ない」というのが一番近い認識だとおもうんですよね……!

(自分が理性一辺倒の世界に住んでいた頃の感覚やそういう世界で生きてるだろうなという人を思い出しながら)

(なんというか、理性以外の世界とは分断されてて、だけど本人はそれに気付かない感じというか……)

根拠も確かな絶対的事実のある世界を信奉していれば、
それ以外を信じている人がおバカに見えてしまう感覚は理解できなくはないし、
まして自分がそこに踏み出そうと思うことはないでしょう……

でも本当の障壁は、「見ようとしないこと」よりも「見えないこと」なんですよね……

自分よりもレベルの高い相手だって、差が小さければ理解はできなくともすごいことくらいは認識できますけれども、
差が大きくて理解できなすぎる場合はむしろ低レベル側に見えるんですよね。
(そしてまた、軽んじられていく)

……と、いうのが科学(理性)の領域にどっぷり住んでしまうと
スピ……というか、理性の外にある世界を覗き込むのが難しくなる理由です。

そんな

「科学の住人にスピの領域は見えない」

ですが、

これは、逆のことも言えます。

「スピリチュアルの住人には、科学の領域が見えない」。

科学(だけ)にどっぷりな人が、根拠のない“解”を活用できなくなるのと同じく、
スピリチュアル(だけ)にどっぷりな人もまた、科学……というか「理性」を活用することが難しくなります。

理由付けをすべてスピや直感にばかり求めてしまって、科学で証明された事項や物理法則、そして論理、なにより検証や確認を軽んじることで、必要な思考も放棄するようになってしまうからです。

思考を超越したスピリチュアルは素晴らしいものですが、
思考を放棄したスピリチュアルは、素晴らしさとは逆の方向へ邁進してしまいますね。

直感というのは、欲望や思い込みといった低い感覚ともかなり容易に結びついてしまいます……というより、感覚的にはほぼ同じです。自身でその差を見分けることは容易ではありません。

盲点を持たない人間はいません。
その不完全さを補うにあたって、理性の世界は力強い味方となってくれます。

理性ですべてを見聞きし判断することはできませんが、
理性を活用することもやっぱり大切なのです。

先に引用したPDFには理性の長所も書かれているので、
そちらも抜き出してみます。

低いレベルの感情を超越できると、知性と合理性が現れてきます。

さまざまな科学や思想に対する理解力や読解力、さらには、インスピレーションを概念化し言語化する能力が、著しく増大します。


良くないスピリチュアルには、この知性が足りていない。

なので、理性の長所を裏返すと
スピリチュアル的な素質の高い人たちの持ちやすい短所が見えてきますね。

  • 低いレベルの感情に囚われやすい
    感受性の強さや共感力の高さを持っている == 感情の揺れ動きが大きい ため、良くも悪くも感情に振り回されやすい

  • 理解力や読解力を伸ばしにくい
    感覚的に理解できるか細かいところを気にしないため、思考による理解を深めることへ手を出しにくい

  • インスピレーションを概念化・言語化する能力に欠けやすい
    理性の力(理解力・表現力) が想いやインスピレーションに追いつかないため、現実上で表現・伝達する力が弱い

科学風に言うと、左脳の働きが右脳の働きに追いついていないのですね。
実際には前頭葉とか他の部分も関わってくるのですが、
ここでは話を単純化したいので「左脳/右脳」にまとめちゃいます。

この記事は
「科学/スピ」の話ということで始めましたが、
「左脳/右脳」の他に
「理性/感性」「男性性/女性性」と言い換えることもできそうです。

ちなみに、「スピリチュアル」という単語でピンと来なければ(または抵抗があれば)
「芸術家」という単語で解釈すると近い理解が得られるかと思います。

理性に偏りすぎると、感情やらなんやらの
言葉で語りきれない大切な“何か”が足りなくなる……
芸術が技術に偏重しすぎると人の心を揺さぶる力を失っていくし、

感性に偏りすぎると
自身の思考や行動を統率するために必要な理性の力が足りなくなる、
心に浮かんだものの表現ができなくて物理世界へ芸術作品として喚び出すことができない と。

なので、どちらかに肩入れしすぎてバランスを失うと
もう片方の世界が薄らいでいってしまう、消えて見えなくなってしまうね、ということですね。

うーん無理じゃn……

いや……

ここは努力次第でいけないこともない……のか……?

とはいえ、理性の世界を苦手とする人がそこへ踏み込むための努力って並大抵じゃ足りないだろうし……
要するに勉強(特に理数) なんだけど、
脳の機能から改善していく必要があるかもしれないし……

理性からスピ方向へ行きたい場合には
存在しない世界に踏み込まなくちゃいけなくて、
努力というよりも飛躍が必要になる。

しかしこれをおこなうための確実性が高い手順や方法論なんてものは存在しない。……いや全くないわけじゃないんだけど、それができるならそれをする必要はない、って感じになるし……

手順や方法論といったものの扱いを得意としているのが理性の住人だというのに、
それらが通用しないブラックボックスを超えていかなければならない……

意識的にやろうとしたら、感情的な抵抗や恐怖心も湧いてしまうのでは……

まぁそもそも「その先を体感してみたい」と思わないところが一番の壁になるだろうけれども。
「(頭で)理解したい」と思うことはあるかもしれないけれども。

両者の間に横たわる溝は深い /(^o^)\

実際は、科学とスピの間に元々の溝や対立があって深まっていくわけじゃなくって、
自分の脳(能)で理解できない、というところに根本的な断絶があるのでしょうね……

理解できないから (無意識に) 軽んじてしまう、
軽んじてしまうからますます理解できない、
お互いわかり合えずに距離が離れ溝は深まる一方、
ここで人によっては否定に走ったりして感情的にも断絶が深まる、
と、
そういう流れなんでしょうね……

(意識レベルは常時一定ではなく常に揺れ動いているものなので、
ある領域ではレベル400理性を発揮できる人が
気分や劣等感などによって200未満を生きていることは全然あります)

実際に……というかなんというか、ではあるけど、
双方が歩み寄ろうとしている場面 (科学派がスピ派のことを理解したがった) に遭遇したことあるけど

スピ派の使う言葉は感覚的・情緒的すぎて

『うわぁそれはスピ仲間向けの言葉だよ!!
論理で会話する勢には何も伝わらないよ!!
説明じゃなくてポエムだよ!!』だったし

科学派は実際その辺全部切り捨てだから何も受け取れてなかったし……
本人に切り捨ててるつもりはないんだけど、本当に分からないのね。
「自分は頭が良くて博識で理解できない言葉はない」という自負も持ってたから、なんか可哀想でもあり……

でもちゃんと説明されない、おちょくられている、煙に巻かれている (と感じる) ことからくる苛立ちも加わった結果、
元々無駄ナシ情ナシザックザクだった言葉遣いがますます鋭利さを増してしまって、優しく穏やかで情緒的な言葉選びを当たり前とするスピ派の反発をめっちゃ買ってたwww (笑うなw)

この二人はまあ、どちらもちょっと極端すぎたというのもあるんだけれども

科学派は頭脳と思考、知識で伝達・理解しようとするんだけど、
スピ派は感覚と体感、経験で伝え合うし、

一定以上バランスが離れると
マジでお互いの住む世界が違うのだよね……
意思疎通ゥ……

まとめ? おわりに

わたしとしては、
スピリチュアル……
靈とかエネルギーとか波動とかの非物質領域に関しても

(波動はそのうち物理観測されると思ってるけど)

(現状の科学用語に「波動」って単語が既にあるから、呼び名は変わるかもしれないけど)

科学と呼べるくらい、ガチな研究や検証がされていって欲しいんですが……

いくら主観と体感中心の世界とはいえ、それぞれの思い込みや傷や知識の限界に囚われざるを得ない個々人でバラバラに経験値を積んでいくのは……効率が悪すぎる……

いや
まとまることで手に負えなくなることもあるわけで、一長一短だとも思っているのですがw

それとも、広まってないだけでわたしの元に届いていないだけで、
思いの他進んでたりするんですかね……

それっぽい話はちょくちょく聞こえてくるような……

いずれは、意識の力で
人の祈りが医療の助けをできるくらいに、
それが薬のように普通に用いられるほど
使われるようになっていったら面白いのですがw

……というのは、半分冗談で、
だけど半分本気です。

医療の進歩によって、肉体の物理的な損傷を治療できる範囲は広がりましたが、
非物理の体は重症のまま放置されっぱなし、ということもありますので……

非物理の方にもある程度の自己治癒力はありますし、肉体の生命力が確保できれば日常生活していくぶんには何とかなったりもしますが。

非物理とはいえ場合によってはすごい酷い状態になっていることもあるので、社会的に治療の施設が一切用意されていないのって実は怖いことなんじゃぁ、と 思うことがありまして……

意識の作用を人々が知って、扱い方を覚え、制御できるようになったら、
物理的な対応にも活かせるので便利だと思いますし、
平和や活力等々にもつながりますし……

良いのでは、と思ってしまいます。

まあ、逆に厄介なことになる可能性も孕んではいるのですけれども。
それに、医学の領域に導入するならスピよりも先に東洋医学かな……

とはいえ、仮に取り組みが始まったとしても
スピリチュアルな素質・体験・知見、等々は
どうしても個人のそれらに深く根付いているため、
観測、科学、客観性の領域に乗せることは難しいでしょうが……

芸術の分析が無意味であるのと似て。

芸術よりもさらに、精妙で多岐に渡る分野ですからね……

それでも、

芸術を研究することがまったくの無意味ということはなく、新たな文化への足がかりとなったりもするように、

非物理の領域も、いずれは非科学的だと切り捨てられることなく大真面目に理性の世界と手を結んで欲しいなと思っています。

科学の始まりが錬金術であるように
「スピリチュアルが証明されると科学になる」ように、
オカルト分野は科学の前駆でもありますから、
いずれはそうなっていくとも思ってるんですけどね。

だから、わたしとしては、
スピリチュアルは「非科学」ではなく
「未科学」と呼びたいです。

(実際にそんな扱いではあるらしい。
スピがそう、というわけではなくて、科学で証明されていないもの全般に関して、という感じだけど)


一方で、この記事に書いた思考を辿りながら
下記の価値観を、より明確に捉えることができました。

「スピリチュアルで語られるものたちは、科学ではない」

「科学で証明されていないことと、存在しないことはイコールではない」

「『水からの伝言』は疑似科学であり、純然たる科学ではない」

(関連記事「水からの伝言」について思うこと

今までもそう思っていたけど、より実感を持ってと言いますか……

ともあれ、科学とスピと手を結んでほしいなーとは引き続き思いつつ
うん無理だわ!!ってことにも納得しつつ

今後も双方共にゆるっと好きでいようと思います!

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