タイトルには「目」とか「耳」って書いたけど、心ね。
この記事は心のお話です。
苦しい心境
劣等感とかマイナスの感情、侮辱の言葉などが脳内に渦巻いて抜け出せなくなる、
そんなつらい精神状態になることってあるでしょうか。
絵にするなら、こんな感じで……

禍々しいの描こうとは思ったんだけどちょっと氣合入れすぎたかな! でも実際はこんな絵比べ物にならないほど禍々しい
文字を敷き詰めすぎたので見づらいですが、
「やくたたず、できそこない」
「これからもうまくいかない」
「あしたも生きなきゃいけないの?」
他、真っ向から信じると心が折れるような言葉が並んでいます。
すべて、頭の中に巡っている言葉や感情なので、
ごく自然に、
自身が信じていること、
自身の内面から湧き出てきたものと認識されがちではありますが……
その大部分が、自分の思いではない可能性がある
人間が生きる上で抱く想いには、様々なものが影響しています。
他人から見聞きした言葉はもちろん、口に出さずに思っているだけの内容ですら影響することがあります。
その“他人”というのは、個人でない場合もあります。
集団意識・集合意識といって、人が集まったことによりできる総意や雰囲氣みたいなものです。
家族やチーム、学校・会社・国家に至るまで、
複数の人間が集まると、その集団の性格みたいなものができますね。
そして、所属している個人の振る舞いや価値観に影響を与えます。
また、満員電車に乗ると苛立ち、不快感、疲労感などを感じたりしますね。
実際に不快な環境だから疲れる、というのがもちろんあります。が、周りの人たちが感じている不快感が自分に影響してきて不快感情が増す、ということもあるのです。
こういうものが、集団意識による影響です。
この辺りの影響度合い、また何に影響されているかというのは、その人の状態や性質に左右されます。
状態に関して、体が健康で氣力も充実していれば、悪い影響をはね退けて良い影響を受け取ることができます。
性質に関しては、頑固よりも柔軟な性格の方が周りの影響を受けやすいです。
しかし性格以上に、氣質が繊細であることが影響の大きさに関係します。
そのため、エンパスやHSPは自覚の有無に関わらず、周囲の刺激が常に過剰でもおかしくありません。
(参考記事:「エンパス」とは、同調・共鳴しすぎる人たち/「HSP」の説明に関してはここでは省きます)
嬉しくない話ですが、
現代社会は穏やかに暮らすには刺激の強い情報や生活条件が飛び交い過ぎています。
そのため、悪影響を受けて調子が悪くなり、調子が悪くなったことでますます悪影響を受けてしまう、という負のスパイラルに陥りやすい状況が整っています。(繊細なタイプは特に)
受け取った苦しみの再生産
ここで最初の絵に戻りますが、
このつらい精神状態のうち、もし、もしもですね、
あなた自身の想いは1割にも満たなくって、
あとは 他人の苦しみ を受け取っちゃってるんだとしたら、どうですかね!
だいたい、その「あなた自身の想い」すら、
本当にあなたの想いかどうかは怪しいものですよ。
かつて親に叱られたとか、友達に悪口を言われたとか。テレビやネットでこき下ろされてるのを見た、とかで。強いショックを受けて、感じた引け目が記憶にこびりつき、不安から何度も何度も反芻してしまっているだけかもしれないのです。
単なる不安な感情を「事実、本当のこと」と思いながら、繰り返し繰り返し自分へ言い聞かせるほど、ますます洗脳が強まります。
洗脳ですよ!!
そしてその、「事実、本当のこと」とやらが再生産されていくのだ。
耳に心に痛い内容が事実かどうかよりも、心がそこから離れられなくなっていることが問題です。
どんな問題にも解決策や緩和策を見出すことはできるし、どんな常識も世界の全てで盲信されているなんてありえません。視野を広げることを拒絶して、自分(ときには他人)を責める方向に終始する思考回路が作り上げられている状態は、洗脳としか呼びようがありません。
コンピュータウィルスの侵食みたいですね!
でも通知が出ないから、氣づかないまま進行していくのですぜ‥‥
こうして洗脳を深めていくと、この洗脳と同調する嫌な想いに影響されます。
そして嫌な想いに染まった心で世界を見て、嫌な世界に合った振る舞いをし、嫌な想いが周りに影響します。そしてまた、周りから同調する想いを呼び寄せるという…………
これは恐ろしい無限ループですが、科学全盛期の現代において「口から出してない事で周りに影響している (されている) 可能性」なんて思いつきもしませんから、氣づくことができません。知らず知らず、このシステムに乗っかったままで生きてゆくことになります。
そして無限ループの“成果”が、何年も何年もかけて大きくなっていきます。やがて抱えきれる量を超えたとき、耐え難い人間関係・金銭などの問題や、健康状態の悪化に形を変えて表面化します。
頭によぎった言葉を落ち着いて考え直すことができたら
ここで今度タイトルに戻りますが、頭に響くその言葉、本当に、耳(心)を貸す必要があるのですかね?
自己否定の言葉、鵜呑みでいいんですかね??
自己否定を、「そんなことはないと思う」と更に否定してもいいのに?
自己否定の否定(ややこしいな)をどうしても思えなかったら、「そうかもしれないけど、別にいいんじゃないか」と流してみるという選択肢もある、のに?
いろんな返し方がありますよ!
「嫌だな。何か画期的な解決策が思い浮かぶといいんだけど」って返せば、“解決策はあるんだ”という可能性を認めたことになります。
そんなん絶対ムリだなんて心配はご無用。なんせ“画期的”ですから!
同じように、「自分がこのままでも問題ない環境や相手があるとしたら、どんなかなー」と返せば、“自分は責められ続けるほど悪くもないんじゃないか”という可能性を思い出したり、“自分が問題のある人間だとしても、負荷なく過ごせる相手が存在する”可能性に目を向けることができるようになります。
探せば案外なんとかなるので、まずは探せる精神状態になるんだ!
つらい想いで氣持ちがいっぱいいっぱい……!という状態ばかりを経験してしまうと信じ難い事実ですが、あなたを苦しめている想いの向こうには、あなたを応援する想いも控えています。必ずいます。
ただし苦しみが邪魔すぎて基本、見えないし届かない。
応援の言葉は、あなたを苦しませたい言葉たちとは違って、押し付けがましいアピールをしてきません。あなたの心へ入り込もうとグイグイすることはなく、声はかよわく、ただそこにあり、あなたに選んでもらえる事を静かに待っています。
応援の言葉と共に在るためには、苦しみの言葉たちを押しのけて、応援の言葉と共にありたいという意思を、自分自身で選び取る必要があります。
長年苦しみの言葉に浸っていると、苦しみの方を受け取りやすい耳(心)、応援が聞こえにくい耳(心)になっているので、始めは難しいです。
でもそれは道です。最初は獣道 (ひょっとしたら茨道、道なき道) であっても、それでも聞くんだ、私はそっちへ行きたいんだ!という意思を通す事がそのまま、道の通りやすさに反映されていきます。
望まぬ情報や想いが飛び交う世の中ではありますが、
「どんな言葉に耳(心)を貸すのか」
本当は、すべてを自分で選び取ることができます。
あとは本氣で望むかどうかだけだ!
(でも流されてるときはホントどうしようもなく流されるまましかできないよねえぇ!! (;∀;))
この話にはディープな続きがある
