発達障害を言い訳にするな……か

 

私も同意見

……同意見なんだけど、
『本当にそうなんだろうか』っていう揺れも
拭い去ることができない

疑っているわけじゃない、
他の人には素直に
『自分をいたわってあげなよ』って言えるんだけど……

 

自分に対しては、

『本当にそう思ってしまってもいいのか?
割り切ってしまってよいのだろうか??』

って、
どうしても…………

 

※この記事は、嘆いているだけで
身になる内容は特に書いてないです

 

私は今、社会(労働)への適応を諦めているんだけど
その理由は「消耗が激しすぎる、負担が大きすぎる、氣持ちが折れた」ためであって、
能力的には、やろうと思えばそれなりに対応できるんだよね。

消耗するながら、歯をくいしばれば
全く動けないわけではないんだ。

平たく言うと、
「本当にできない」のか
「できるのにやらない」のか、
自分では区別がつかない。

 

「ナツキさんならできる (できた) じゃないですか」

「ナツキさんなら楽勝ですよね!」

という言葉が私を喜ばせてくれたのはごく若い頃だけで、
以降は私を追い詰めて苦しめる言葉になってしまった。

これを発する人たちは、
目に見える結果や成果のみを評価していて
その裏にある私の苦労や努力、まして疲労は想像もついていないことが伝わってきたから。

その前提のまま私に何かさせようとしている意図にもげんなりしたし、しかしそこに悪意がない (あっても、その人もまた追い詰められたり自分で考える力がないためにそうなっている) ことも察することができて、
相手の正当性を受け入れるしかなくて、もう、
やるせなさしかない。

 

私の主観では、
“(簡単に)できる”んじゃなくて、
“無理を通してる”んだけど……

でも実際、目に見える成果をやれば出せてしまうから、
「やらないのはおかしい」と言われたら、何も返せない。

消耗の度合いだって、
「他の人と同じ事をしても、私の場合は消耗が非常に激しい」ことを、
観測できるように提示できない。証明できない。

 

まあーーー そうだなあ
せめて観測できる材料があるとしたら、文章くらいかなあ。(´д`)

文章量やたら多い。
他の人と同じテーマから文章を綴るという経験は、さほど多くないんだけど、
それでも十分わかるくらい私だけ異様に量も密度も濃いんだよね……人様の文章と並べてみると。
これは観測できることのはず。

 

精神活動、特に感情の動きを伴うものは、意外と疲れるらしい。

文章量の多さが精神活動の多さや疲労の量と直結するわけではないけど、
文章量の増える理由の一端が感情の起伏や発想の広さにあることが見て取れた場合、
疲れてもおかしくはないと言えるんじゃないかな。

 

ちなみに、思考はさほど消耗しないらしい。

頭が良過ぎる人の脳はどれほどエネルギーを使っている? | EMIRA
空想世界で描かれたワクワクする未来を、エネルギー文脈から分析する好評のEMIRA連載。第5回のテーマは、マンガやアニメに出てくる頭が良過ぎるキャラクターたちの脳について考察する。

計算をしたり、文章を読んだり、思考したりなど、意識的に何かをしているときに脳が消費するエネルギーは、何もしないでぼんやりしているときの15分の1でしかないというのだ。

 

とはいえ、「考えると疲れるから、なるべく考えないようにしている」という人にはたまに出会う。

中には頭を使いすぎると頭痛になる人もいるそうだし、知恵熱という言葉もあるくらいだから、
まったく消耗しないわけでもないように思う。

思考と消費エネルギーの関係について、引用元記事でも触れられているけどここでは割愛する。筆者さんの推論に私も同意。

 

ほとんどの人が一言二言で済ませてしまう(そもそも氣が付きもしないかもしれない)ことに、
いちいちかなりの長文を作れるほど心や頭を動かしているとしたら、

その密度はそのまま、
感受性の密度であり、
生き方の密度であり、
疲労や消耗しやすさにもつながってくると言える氣がするけど、どうだろう。

 

実際のところは分からないけど……

 

……本当は、真相なんかどうだっていい。

「私は、人より、すごく疲れる」って、思いたい。

 

「怠けてるだけじゃん」と
見られたくない、言われたくない、思いたくない。

この程度だけど、
この程度で精一杯なんだって、

……自分に対して、
「そりゃ疲れるよね」って言ってやりたい、

“できる”んじゃなくて、
“無理を通してるだけ”なのだと……

堂々と思いたい……………………

 

私がそんなふうに稼働しているのを見抜ける人は、
「もっと力を抜いた方がいいよ」と言ってくれることがある。

それが合っていることは分かるし、ありがたいとも思う。

けど、力を抜いたらもう立てない。

ろくに立ち上がれない、まともに会話もできないようなリラックス状態と、
消耗は激しいけど人並みに反応をできて成果もそれなりに出せる緊張状態の二択しかなくて、
最低限の動きをするためでも後者を選ぶしかない。

ごめんなさい、それしかできない。

私に声をかけてくれた人の「力を抜いた状態」はきっと、適切なんだろう。
疲れにくく、なおかつ人間として成り立っていて、求められたことには応じられるんだろう。

私にはその感覚がわからない。

極端しかなくて、ごめんなさい。
ごめんなさい。

 

私は何に謝っているのだろう。

なぜ必死に説明したがるのだろう。

そこまでして、分かってもらわないといけないことか?

 

分かってもらわないと、
できないことをできて当たり前だと扱われる。

苦労を伴ってようやく成し遂げたことを、ごく簡単にこなしていると思われる。

「はい、次」「もっと」って。
苦労に見合わない頼まれ方を当たり前にされるようになるのが、いやだ。

 

評価されたいわけではない、名誉なんかべつにいらない。
ただ……ただ、

ごめんなさい、私はもう、もうこれ以上、
できない。

 

私のそんな叫びは、分かってほしい人にほど
「そんなのは間違ってる」
「めんどくさい」
「なにを馬鹿なことを」
で済まされてしまうのだろうな。

弱った人を無邪氣に足蹴にしながら
自分を善良だと思っているこういう人たちが、
私は怖い。

 

分かってほしいと必死になる必要のない相手が私の周りにはたくさんいるのに、
そういう安心できる人たちよりも
一緒にいて苦しい人たちのことばかり考えてしまう自分も嫌だ。

 

なにより、これだけ文句を言いながらも
私自身が足蹴にする側だったことが苦しい。

少しとはいえ、物事が分かるようになると、
自分のしていたことがどんなことだったか、どんな風に見られていたか、
諌めてくれた人を無視してしまったこと、
いろいろ想いを馳せる材料ができてしまって、
にも関わらずいざ自分がされてみたら文句ばかりで、苦しむ資格ないだろうにって、
苦しい。

 

発達障碍が私にとって、
努力不足を怠ける口実にすぎないのか
本当に動けない足かせになっているのかはやっぱり、
分からないんだけど。

運動不足も影響してるだろうしさ。
運動不足を解消したら疲労感変わるって言うし……、

結局、怠けによる努力不足と言えてしまうのかな……

…………。

 

それならそれで、
『もう怠け者でいいや……』と思い始めてるんだけど……

なんかもう、その方がラクだし。
怠け者だから、何もしなくていいや。
事実だから、後ろ指さされてもいいや。

 

ただ……

怠け者だけど、生きてていいのだろうか。

社会に何も還元していないのに、
社会に生かされていていいのだろうか……

自然の恵みは無料だけれど
人間の労力は無料ではないのだ。

 

これが他の人からの投げかけなら、素直に
『それはいいに決まってるやつだよ!』って言えるんだけど……

自分に対しては、
どうしても……

 

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無料なんて存在しない、すべての活動に人件費がかかっている

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