今日も明日もその先も、様々なところで様々な人がそれぞれの愛情表現をしている事でしょう。
そしてそこには、愛されて嬉しいという気持ちと、愛することが嬉しいという気持ちが、それぞれ生じていることでしょう。
しかしその一方で、このような思いも生まれている事でしょう。
「こんなに愛しているのに、どうしてうまくいかないの?」
人は正しさ、親切心、愛の名のもとに表現されるものを、受け入れるべきだ、疑ってはいけないものだ、のように思ってしまいます。
でも実は意外とそうではないというか、100%の善意や愛情を尽くしていても、贈り主の心に濁りや歪み、不適切な価値観があるのなら、
その人が表現する愛情もまた、それらの影響を受けたものとなります。
わかりやすい例を、
“搾取子”“愛玩子”という言葉から読み取ることができます。
この「搾取子」「愛玩子」は何か?と言うと、
毒親に育てられている子供を表している言葉です。
搾取子と言うのは、親の都合で利用されてきた子供たちです。
家事を全部させるとか、子供の実力を配慮せずに叱りつけるとか、金銭的に苦しめる、など。
愛玩子と言うのは、とにかく可愛がられた子供たちです。
家事はしなくていい、何もできなくても褒めちぎる、欲しいものをいくらでも買い与える、など。
偏った思考の持ち主でなければ、この育て方はどちらもおかしいということがわかりますよね。
搾取子は何でも自分でできる代わりに自尊心と安心感を失い、
愛玩子はかりそめの幸福の中で自立心と社会性を失います。
しかし育てた人は言うのですよ。
搾取子に対して、
これはしつけ、何でも自分でできないと困る、世間はそんなに甘くない。
愛玩子に対して、
苦労しなくていい、幸せでいて欲しい、この子には必要ない。
そう、「愛している」と
方向性は真逆ですが、これはどちらも
親の欲望や思い込みを子供に押し付けている
といえます。
でもそうですね、やっている方としては本当に愛なんですよ。
なぜなら、本人たちには愛情と欲望の区別がつけられないから。
生命と言うのはそれだけで愛なので、逆に、行動に愛を含まない事が不可能です。
すごく極論を言うと、ある意味では殺人や犯罪すらも愛情表現の1つと言えます。なぜなら人、それ以外の命も存在することが愛そのもので、愛が何かしたならば、それは愛以外ではありえないから。
類似の記事→ 究極的には、悪意すら善意の一部である
でも、殺人が愛だなんてとんでもないですよね。
殺意が刻印された愛なんて、受け取れるわけがない。
同じように、自分勝手が刻印された愛は、愛だけど、受け手にとってロクなもんじゃないのです。
(同じ病みを抱えている者同士ならば例外になることもありますが)
だから、愛なのにどうして受け取ってくれないのじゃないのです。
疑うポイントが違うのです。
相手に、「これは愛なんだよ」なんて分かってもらわなくていい。愛なのは揺るがないから。
「相手にとって受け取りたくないものが含まれていた」
「相手が受け取りたいものが何なのか、あなたは見ていなかった」
問題なのはこのあたりとなるわけです。