教育により、可能性を広げるどころか狭めているかもしれないのだ

…………というタイトルを真に受けて、

「なら坊ちゃんの英才教育やめるザマス!!」

とかは!
ナシで!!
たのみますよ!!!

思考の幅を広げるためのお話なんだからね!!!
ねっ!!!

シンプルに言うと、
「赤ん坊は、宇宙語も喋れるようになれる」
ということです。

なんのこっちゃw

シンプルじゃなく言うとw

赤ん坊の産声は、全世界共通である。

みな同じ言語(?)を喋っていたところから数年が経つころには、彼らの使う言葉は世界中の様々な言語へと分岐している。

やがては使用言語に依存するようになり、
それ以外の言語を聞き、話せる可能性は著しく損なわれていく。

(語学が成り立ってるんだから実際はそうでもないかもしれないけど、ここでは話を単純化させてください)

しかし、本来、赤ん坊の頃には、全ての言語を理解する下地があったのだ。
誰も知らない言語、まだ存在していない言語、それらすらも。

仮に、宇宙人が関わってきたとする。

彼らは地球に住む人たちと、何もかもが違うとする。
体の構造も、価値観も、生活習慣も、
こうやって言葉で表現することがかなわない領域のなにがしかも、
何もかもが。

もちろん、使用言語も。

そもそも会話の手段が、声帯を用いて空気を震わせるなどで、意味のある言葉を伝播する……という方法ですら、ないかもしれない。

地球に暮らしている人々が、彼らとコミュニケーションを取れる可能性は絶望的だろう。

だが、赤ん坊のみは、時間とともにそれを成していけるだろう。

赤ん坊だった者へ、先人たちの築いた都合の良い振る舞いを身に着けさせ、本来の彼らにはなかった癖をつけていくことで、可能性を広げるどころか狭めている、というのが、
教育というものの正体であるかもしれないのだ。

……と、いうことです…………

「癖」と書きましたが。

仕事でも趣味でもなんでも、初心者さんにはよく、こういうことが言われます。

「最初に変な癖をつけちゃうと、あとで大変だからね (直すのが)」

教育が「変な癖」ではないと、一体誰が言いきれるのか?

……だからって

ザマスはしないでくださいよね!!! (再)

混沌とした社会はイヤじゃ
可能性狭めてでも教育がだいじということもある

すべての可能性を一度に体験することもなかろうしな……
見られなかった未来を後悔する必要はない。

とはいえ、狭めてほしくない可能性、施してほしくない教育だって、もちろんあります。

……。

「自分はダメだ」

って思いに誘導する、とか。

これピンと来ないかもしれないけど、教育の結果ですよ。
赤ん坊、幼児の頃にはこんな気持ちにならなかったんだから。
……覚えてないけど、そのはずw

学校(とか)で「お前はダメだ」って、直接言われることはそんなにないはずです。

(世の中にはひどい親御さんや先生もいるから、日常的に言われながら育った方もいるはいるんだろうけども……)

でも、「遅刻してはいけません」「忘れ物をしないように」なら、誰もが聞いたことあるでしょう。

これは裏返すと、「遅刻・忘れ物するやつはだめだ」という意味を刷り込む言葉です。

やがて、同じような言葉が、親と学校以外からも、そして様々な領域に対して、やってくるようになります。

「明るくハキハキしましょう」

「友達が少ないのは寂しいこと」

「若く美しく痩せられますよ」

「ちゃんと確認した?」

「ユーモアが足りない」

少しだったら、悪く取らずにすみました。

流すこともできました。
克服すら、できたかもしれません。

でも、要求はどんどん増え、そして難しくなっていきます。

そうなると、対応しきれない分野が必ず出てきます。

最初は、気にしていなかったことでした。

でも、言われて少し、しょんぼりしました。
ひとによっては、たくさんたくさん、しょんぼりしました。

しょんぼりする経験は、時間とともに、どんどん増えていきました。

やがて、「これができない自分はダメなんだなぁ……」と、考えるようになりました。

この気持ちでいる時間が増えたことにより、
何ができるできないに関係なく、
「自分自身が、ダメなんだなぁ……」という思い込みを持つようになってしまいました。

そして、この考えを頭に浮かべる時間も増え、強化していき…………

その頃には「自分はダメだ」を出発点として
全ての物事に当たる人間ができあがっています。

何もかもが悲しくなっていることもあれば、
そこまでの悲壮感は漂っていないこともありますが……

いずれにせよ、気づかないうちに伸び伸びした判断は失われています。

最初はちょっと、遅刻と忘れ物をしただけなんですよ。

……いろいろなことに余白のない現代においては、「ちょっと」という扱いはしてもらえないことがほとんどですけどもw

そのような中で、「遅刻忘れ物をするやつは駄目だ」という内容は教育されていきますが、

一方で、

「遅刻や忘れ物が多いタイプは、
発想が豊かだったり、愛嬌があって人気者になりやすい人が多いんだよ。
それって人を楽しませる才能なんだよ」

という「教育」をしてもらえる機会は、まず、ない。

……あのですね、
遅刻や忘れ物が多い「ウッカリさん」たちというのは、
脳の中にいつもいろいろな事が巡っていて、
現実的なアレコレに合わせられなくなりやすいんですよ。

でも人の懐に入り込みやすいというか、一緒にいて楽しい、面白い、安心できる人でもありやすい。

……なんて説明するまでもなく、感覚的にありませんかね。
みんなから愛されて、気を許されている人は、なんかちょっとウッカリさんなところがある……って。

もちろん、必ず当てはまるわけじゃないですけれども……
本人の性質によるものではなく、慢性的な体調不良や萎縮などで余裕がなくてウッカリが増えることもありますし。(これこそ間違いなく「教育」の賜物です、副作用だけど)

短所と才能(長所)が、それぞれ別々に叱られたり褒められたりすることはあっても、

「この性質はこの性質と結びついている」

「だから、苦手な分野は(良い意味で)あきらめて、うまく扱っていこう」

「苦手分野が気にならなくなるくらい、得意な分野を伸ばしていこう」

と、セットで結びつけられて伝えられることは、まず、ない。

遅刻忘れ物が多い人は、
「遅刻忘れ物が多い(から直すべきな)人」であって、
「周りを楽しくさせる才能を持っている人」と見られることは、まずない。

周りを楽しくさせてくれる人は
「周りを楽しくさせてくれる人」であって、

「遅刻忘れ物をしやすい(細かいことが苦手)かもしれないからフォローが必要になるかも」

……そんなふうに見守られることは、
まず、ない。

だからね、「遅刻忘れ物をしないように」を始めとして、
一見役に立っている≒可能性を広げている んだけど、
本人のためにやっているんだけども、

実はその裏で、もっと大きな可能性や才能、そして自信を潰している教育が、
案外たくさんあるんじゃないかなあと……

そんなふうに、思った次第です。

「変な癖」を抜くには、とても気合いがいるけど……

それでも、自分を「教育」し直すことは、不可能ではないから、
何を望んでいるのか見直して、少しずつ、少しずつ、進んでいけばいいかな。

おやすみしたいとき、太刀打ちできないときは、一旦放っておくのがいいこともある。

自分としては手放したいけど、そうしたら社会に合わせられないから、一旦受け入れるしかない……そんなこともある。
なんやかや言って、遅刻とか、しないに越したことはないですからねw

でも、受け入れているその奥で、本当は何を望んでいるのか、もしくは特に望みはないのか、
赤ん坊の可能性に立ち返った自分なら何を思っただろうか……って自覚しておくことは、とても大切なんじゃないかと、そう思うのです。

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