ご相談をくださっている方から、ご質問をいただきました。
「なんだか最近、本当にこれでいいのか確信が持てなくなってきました。
この状態って、大丈夫なんでしょうか……」
ご相談を始めてしばらくは、今まで無理にがんばっていたことを次々手放して、得意なことに集中できるようになっていった実感があったけれど、
数ヶ月経って落ち着いてきたらその感覚がなくなり、これでいいのだろうかという揺らぎも覚えはじめたとのこと。
実際には、落ち着いているどころか引き続きいろいろなことが活発に動いているし、何かがうまくいってないわけでもない。
人生だから不安要素が全くないとは言わないけれど、何がおかしいということはないのです。
でも……
と、いうお話でした。
『ううーん、特に不審なことはなさそうですが……
変化に慣れたというのはあるかもしれないですね。
客観的には相変わらず変化しまくってるようにお見受けしますが、
主観で見ているご本人は、変化が日常になったことで、体感できなくなった……という』
と、考えられる範囲の事を言ってみましたが……
どうもお互いピンとこない。
スッキリできないこういうときは、何かが残ってるんだよなぁ……
あんまり関係ない参考記事 ●(自分の)真実へ到達するまでの段階
とモヤモヤしていたら、
降ってきました。
『当たり前すぎて、分からなくなった』
がんばっているときには、がんばっていることが分かる。
なぜなら、がんばるというのは、今の自分100%でなく、何かを意識的に付け加えているから。
違和感が生じる。
自覚をできる。
性質と違うことをしているときにも、分かる。
なぜなら、そこには不快感がともなうから。
違和感が生じる。
自覚をできる……かは、人それぞれ。
だけれど、本当に向いていることをしたとき、
自然体で、性質そのままの事をしたとき、
違和感は消える。
違和感を感じる余地がないから。
違和がないから。
……ということで、
『「このままGo!!」で大丈夫みたいですよ!』
と、お伝えいたしました。
違和感が自覚できない場合って、
「自分の本質を無視しすぎて察知できなくなった」
だと思っていたのですが (だから「自覚をできるかは人それぞれ」になる)、
本質に沿いすぎても起こるんですね。
知ってみれば『そらそうやな』なのですが、
いやぁー 意外と思い至りませんでした。
「自己を知る」を軸として、
出来すぎても出来なさすぎても
体感することが同じ というのも面白いなぁと思います。
余談ですが、
出来すぎても出来なさすぎても のパラドックス(?)は、あらゆる事に言えますね。
「自分は多くのことを理解している!」と思った瞬間に、そうでない方へ振り切れることとかね。
これも、奥深くて面白いなぁと思います。