↑の記事に関連して。
「不快感の発生から解消までってパターンあるよなー」と思ったので、まとめてみました。
不快感を覚えて、嫌だ嫌だと文句を言ったり、何かのせいにします。
社会が悪い会社が悪い学校が悪い親が悪いあいつが……
というような、依存的な被害者意識です。
「どうせ自分は」という加害者意識、罪悪感です。
常識がないから、無能だから、男だから(女だから)、若いから(年老いているから)等々…… あらゆる要素を、自己否定につなげます。
「自分が悪い」という思いではありますが、「そんな自分にした」「そんな自分を受け入れてくれない」「弱い自分を助けてくれない」周りへの怒り(他者攻撃)の意識も含まれています。
突き詰めていって1と2を超えると、ひらめきと納得感によって視界がひらけます。
ここまでたどり着くと、「誰が悪い」ということを考える必要がなくなります。
上記1 2 3、どの段階で出てくる言い分も嘘ではありません。
しかし、1の他者攻撃で思考停止すれば、
真実の一部 (そこに何かがあること) は察知していても
「悪いのは(自分ではない)誰かだ」
「自分には落ち度も改善点もない」
という、攻撃と決めつけで終わってしまいます。
我が身を振り返ったり、解決のために力を注ぐ気はなく
「(自分以外の誰かが) 何とかしろ」という意識でいるため、問題が消えることはありません。
むしろ次々と同質の問題を呼び込み、他者攻撃の気持ちも膨らんでいきます。
1を依存とするならば2は自立で、
「(だめな自分から)変わらなければ」
「(自分が)何とかしなければ」
「(無力な自分には)どうしようもない」
といった内容が口癖(思い癖)になります。
それらを何とかしたいという思いがあった場合、足掻く過程で人を助けたり能力や金銭などを獲得できることもあります。
……が、その動機の根底には
「どうか私を責めないでください、
自分で責めますから堪忍してください、
真実を見せつけないでください
(だってそれは、私を責めるものなのでしょう?)」
という恐怖があり、追われて走っているに過ぎません。
自己卑下をしていても、努力をしていても、本当に改めるべき領域は見えていません。
自己卑下をしている間は反省をしている、問題の改善に務めている気持ちになれるため、「自分を責めること」自体が目的となっているところがあります。
そのため、どんなに成果を上げても罪悪感から解放される日は来ません。成果があるほどに要求は上がっていくので、徐々に応えるのが難しくなり、比例して罪悪感も強まります。(体力の限界と共に燃え尽きへ到達します)
これも結局、罪悪感や善行を盾に思考停止していると言えます。
3まで掘り下げられれば、この出来事が何の現れであったのか、
自分にとってどういう意味があったのかが明らかになり、
不快感の解消へたどり着くことができます。
誰が悪いという話ではなくなるため、もう他人も自分も、誰も責める必要はありません。
問題の対処法まで明らかになることもありますし、何をせずとも問題が消えるパターンをたどることもあります。
“真実”へたどり着くための手がかりとしてやってきた“問題”は、
“真実”を受け入れた者にとって、もう必要ないからです。
自分が悪いという事を受け入れるのは大変むずかしいことです。
本当は“悪い”という結論にはなりえないのだと分かっていてすら、むずかしいものです。
だからこそ内省とはとてもしんどく、攻撃心や罪悪感による思考停止はかなり強力で、3へ至るのも本当に、むずかしいです。
このように述べているわたし自身、冷静さを失うことは珍しくありません。
兄へ何度も愚痴った末、
「正直『そこまで言うことか?』って印象なんだけど、お前はどうしてそんなに腹が立つの?僕はそっちのほうが気になる」
と言われて我に返り、ようやく(自己卑下でない)内省と検証に入る……ということもあります。
これすらも、私が普段から「内省大事!!」と考えるようにしているから我に返りやすいのであって、そうでなければ「この酷さが伝わらないなんて!!もういい誰も分かってくれない!!」という発想に流れても不自然はありません。
(というか、そっちへ流れてることも多い)
そんな感じで、真実を目指すのは難しくもあるのですが……
1と2を抜けて3へ至る経験をしたとき、それが誰かを責めたり裏切る内容であったことは一度もありません。
怖いけど、そこが1番ラクで楽しいのだと知っているから、今日も何かを解消したいなって思うし、コレを読んでくださってる方にもこの楽しさ(?)を知ってもらえたらいいな、と思っています。