究極的には、悪意すら善意の一部である

人付き合いを深めていくとどうしても、
相手の気にかかる部分や自分と合わない部分も見えてきます。
相手がどんなにいい人であってもです。

というわけである日は、
そんなお話を聞いていたのでした。

「はぁ……
尊敬できるところがたくさんあって、恩もあるというのに……
どうして人間って、悪いところばかりを見てしまうんでしょうね」

 

人間が、悪いところばかりを見てしまう理由……。

これについては、
「生命の進化がどのように行われてきたか」が関係してくるので、仕方がないといえば仕方ないんですよね……

 

「安全、心地よいもの」と、
「危険や不快なもの」が同時にある場合、
後者に目を向けないと、命の危険に繋がりかねません。

その前提の中で生命が進化してきているので、
不愉快な物事があれば「回避や解消するべきだ!」って警鐘が鳴って優先度が上がってしまうのは、自然なことではあるのです。

だから人間は本来悲観寄りで、物事の悪い部分にばかり目を向けるようになっています。

 

……というのが、まず一般論。

 

ここから先は、私の想像なのですが……

 

この心理の深いところには、

「もっと良い状態であるべきだ」

という想いがあるのではないか?

 

と、考えています。

一般論の方と、本質は同じなのですが……

 

誰かが嫌な言動をしていて、不快感と怒りを感じたとします。

怒りは悪意へもつながりやすい感情ですが、
怒りの元には不快感があり、
不快感の底には

「嫌な言動は存在しない方がいい」

という想いがあります。

 

もしも、嫌な言動をする人がいなくなったら、どうでしょうか。
いたときよりも、平和になりますね。

いなくならなくても、その人が、嫌な言動を改めたらどうでしょうか。
いなくなるよりも、もっと良いですよね。

周りにとっても良いことですが、それ以上に嫌な言動をしていたご本人の世界が見違えるほど良くなっているはずです。

 

だから、「アイツ嫌だな (アイツのこういうとこが嫌だな)」など思うのは、
表面はどうあれ根底には「自分の周りが/アイツが、良い状態であって欲しい」という、善意の願いがあるんです。

たとえ自分勝手な幸せを願っていたとしても、願いというのは、表面ではなく根底の想いを本当に叶えていくと、他の人にとっても良いことが起こります。

(逆に、表面に囚われた叶え方をした場合は、願った本人すらも満足できない結果を呼びます)

 

見る側の人間も完璧ではないですから、
攻撃的に強く憎んだり恨んだりすることもあるでしょう。
客観的には的はずれな、そんな怒りを持つことだってあるでしょう。

これらの想いが高じたら、
嫌なヤツに攻撃をしてしまうかもしれません。
相手が言動を改めても許すことができず、過去の所業を責め続けるかもしれません。

 

でも、それらも広く見れば「良くなってほしい」という想いの一種だと私は考えています。

だって誰かが攻撃しないと、その人は自分の言動が不快だということにずっと気がつかないかもしれないですから。
誰かが深く長く恨まないと、「それだけのことをしたのか」と実感できないかもしれないですから。

良くなってほしい、
自分がそのための材料を与えてやろうというのは、これ以上ないほどの愛かもしれないのです。
たとえ、実行者が自分の想いを悪意と認識していても。

 

そもそも世界の成り立ちが愛と善意から始まっているので、愛で作られた者たちが愛でない表現をすることは不可能なんですよね。
ひねくれて毒を帯びていくことは、当たり前に起こりますが……。

【だいじな余談】
なので、愛(善意)だからって何でも受け入れるのはダメです。

受け取れない愛(善意)は受け取らなくていいです。
すべてが愛(善意)ということは、愛(善意)の名のもとに毒が送られてくることもあるからです。

そういうのは「それは私には受け取れないものですよ」って断ったり逃げたりしてよいのです。てかそうしなきゃダメ。

全てが愛(善意)だからこそ、贈るものも受け取るものもきちんと選び、見極めなければいけません。

 

「悪意すら善意」だからって、恨んだり反撃する役割を積極的に買って出る必要もないです。

悪意を心に持ち続けたり表現するということは、悪意の次の標的に自分を差し出していることになります。
そんな危険な役回りへ、わざわざ飛び込むことはありません。

 

それよりは、離れるとか、「なぜこんなに心が引っかかるのか」と、自分と徹底的に向き合った方が良いです。

嫌な言動を減らす方法として、
「聞かなくてすむ環境にする」以上に
「聞いても響かなくする」がものすごい有効ですから。

 

で、そうやって広くみんなが嫌な言動を無効化していったら、
嫌な言動をする人は本当にいなくなるわけです。
たとえそのままでも、いなくなっちゃうわけです。
もう誰も、嫌な言動だと思っていないんですから。

それに、実際には、家族も友達も仕事仲間も知らない人たちも……みんなが変わっている頃には、本当に「嫌な言動をする人」ではなくなっているはずです。

よほどひどいのなら離れる選択肢しかないかもしれませんが……
そこまで極端ではないのなら、身近な人たちが変化し、環境が変化し、社会の流れを変えた方がかえってラクかもしれないのです。

周りのすべてが以前と違うのに、1人だけがそのままということはありえないので。
気長なやり方ではありますけどね。

 

悪意に呑まれすぎるのは危ないですが、
自分を「腹黒だ」と思うことがあっても、あんまりご自身を追い詰めないほうがよいです。

嫌いなものは嫌いでいいです。
「世界を良くするカケラ」を見つけ、「何とかしたい」と思っているという、ただそれだけのことです。

 

補足

私がこういう考え方へと至ったのは、16Personalities の INFP に所属しているから、というのもあるのだと思います。

仲介者型の性格 (INFP) | 16Personalities

仲介者型気質の人は、真の理想主義者で、極悪人や最悪の出来事の中にさえも、常にわずかな善を見い出し、物事をより良くするための方法を模索しています。

 

関連記事

自分を「腹黒だ」と思うことがあっても、あんまりご自身を追い詰めないほうがいいですよ。

腹黒を自称していたある人へ向けて

タイトルとURLをコピーしました