テセウスの船は元々存在しない説

哲学の命題に「テセウスの船」というものがあります。

テセウスさんは船の持ち主というだけで
お題には一ミリも関わってこないのですが、
ともあれこのような内容となっております。

あるところに、一隻の船がありました。
年月が経って古くなってきたので、
あちこち修理が施されました。

修理のたびに部品は新しいものに交換され、
やがてすべての部品が入れ替わりました。

当初のテセウスの船とは
まったく関係のない材料で組み立てられたこの船は、
それでもテセウスの船なのでしょうか?
それとも別の船でしょうか?

また、もしも古い部品を破棄せずに
別のところへ運んでいって、そこで組み立て直したら、
こちらの船は、テセウスの船なのでしょうか?


「一体何が、その存在を、その存在だと決めているのか?」を問う、
「同一性」を考えるお題です。

『ギャワー』ってなりそうです。

初めて聞いたとき、なりましたw

しかしそれは、
科学的、物理的な土台の上で考えなければいけない、という前提を持っていたからで……

あるとき思いました。

この問いの答え、
実はかなり単純で、簡単なんじゃないだろうか??

人々がテセウスの船と認識したものが、
テセウスの船なのである


言い換えると、

みんなが言えばそうなる

ミもフタもない!!w

 

その答えはさすがにどうよが過ぎるのでは

なので、やっぱりもう少し、
科学的、物理的な土台を重んじた方が良いのでは……

とも思ったのですが、

しかしそもそも……

物理的にというか、自然界上に、

“船”そのものが、存在しないんですよね。

「何を言ってるんだ、

“船”は実在するじゃないか!」

なんですけど、

その機能や意味付けは
「人間が作ったもの」であって
「人間の頭の中にある概念」であって、
「人間の頭の中にあったものを具現化した」のであって

自然界には、
“そういうもの”は……
木や鉄の塊は存在するけれども
“船”という存在はない

のです……

言いたいこと、伝わるかな……

自然界……物質でできている世界と、
人間の頭の中は、
実は別の世界なんですよね。

物理的に見たり聞いたり触ったりできる世界と、
そうでない世界。

五感が、この2つの世界を繋げてくれています。
両者の繋がりが密接すぎて意識しづらいですが、
五感で感知できる世界と、人間の精神活動でできている世界は、違うものなのです。

微細だったり感覚器官がなかったりして人間の五感で察知するのが難しい刺激を検知するためや、
またそれを与えてくる世界へ今度は自分たちから働きかけていくために、
人々は道具を作ったり、身体や思考の使い方を最適化していくということを、してきました。

「五感で感じ取る世界と、人が認識している世界は、違う世界である」

ということは、
人間同士であっても、誰かから見た時、
他の人の頭の中もまた、違う世界です。

そのため、各々が自然体そのままでいると、関わり合い、協力し合うことが難しいです。
別世界同士の慣習や価値観が近ければ良いのですが、ただ放っておいて、そうなることはめったにありません。

それで、頭の中の別世界同士を繋げるためにコミュニケーションが発達していき、

「いろいろな人がいるけれど、とりあえずこれを基準としよう」

という共通見解が、築き上げられていきました。

ちょっと話が逸れますが

精神世界の上では、
共通見解が多ければ多いほどご近所さんであり、
少なければ少ないほど、遠いところに住んでいます。

ご近所さんは身近な関係や生活といった日常を共にするのに向いていますが、目新しい刺激を得ることは難しいです。
遠い人は、価値観を広げてくれやすいので貿易関係としては有益になったりしますが、近い距離では日々を共にするのはおろか、意思疎通から難しかったりします。

物理的な世界の上でのご近所さんは
精神世界でもご近所さんになりやすいのですが、

コミュニケーション技術……伝えたり伝えられたりするための技術が未熟であったり
自分を変化させるのが苦手だったり、
根本的な差があまりにも大きすぎたりして

共通見解をあまり育てられない場合もあります。

その場合、たとえ物理世界で近い距離にいても、長い時間を過ごしても、そして多くのコミュニケーションを試みても
精神世界上では遠い人、と言えます。

閑話休題。

船も、その部品も、材料である木材等々も、
人々の共通見解の中には存在していますが、
動物たちや虫たち、植物たちに鉱石に水や気体……
自然界にその概念を行き渡らせることは不可能です。

なので、“そういう物体”は存在するけれど、
“船”や“部品”は存在できません。

そのため、「テセウスの船」も、
自然界には存在せず、人間界(人間の精神世界) にのみ存在します。

ゆえに、
「何がテセウスの船で、何がそうでないか」は
厳密な、物理的な観点から定義をできるものではなく、

「人々が何をテセウスの船と認識するか」に
かかっています。

 

観測から得られる情報を元に定義することができない以上、
見る人たち各々の感性や価値観に従って
いろいろな見解が出るのは当然のことです。

船が一隻のときには認識を統一することが容易ですが、
二隻になってからは

「部品の新しい方だけがテセウスの船だ」とも言えるし
「いや古い方だけがテセウスの船だ」とも言える、
「いいや両方ともテセウスの船なのだ」とも言えますし

なんなら

「いやいやそうなってしまってはどちらも違うのだ」

とすら、言えるのかもしれませんw

個人的には

『めんどくさいからもう同一性とか忘れて
言葉通り「テセウスの所持している船がテセウスの船だ」でいいじゃん……!』

と、言いたくなってきますw

(だけど最初に書いた通り

「テセウスさんは船の持ち主というだけで
お題には一ミリも関わってこない」わけで、

ここでつける「テセウスの」は

「古今東西に数多ある船のうち一隻に特定し、また哲学命題と紐づけるために使われている名称、固有名詞の一部」であって

「所持者を示しているわけではない、所持者を特定することに意味はない」わけで

「テセウスの所持している船がテセウスの船でいいじゃん」という認識を提案することは

そもそもの命題をまる無視した

あ゛ーーーー~~~~!!!!!!!!(発狂)

 

答えがそんなふうに不安定になってしまうのは、
人々の共通認識の方が、不安定になってしまうから……
人々がテセウスの船に向ける想いの方がバラバラになってしまうから、ですね。

新品の船のみだった頃、単純だった話が、
修理に伴ってややこしくなってしまうのも当然のことですねw

 

自分たちで決める事を「何が正しいのか」と論じてる姿はちょっと滑稽……かもしれない

そんな感じの答えが浮かんできた結果、

『あれっ……

「何を答えにするか、
みんな (もしくは代表者)
共通認識を決める (探る) 問い
に対して、

「何が正しいか、正解を見つけようとしている
のって
もしかして……

アホでは???

という、
どちゃくそ失礼極まりない疑問が…………

いやでもさホラこれアレじゃん!!

「AくんとBくん、
あたしはどっちが好きなの!!?」

じゃん……!!

「あんたそんなの
人に聞いてもネットで調べてもムダだよ!!
自分で決めるんだよ!!」

って、返されるやつぅ……!

どちゃくそ失礼極まりない扱い

ええと。

人類が歴史の中で頭のいい人達でいっしょけんめ考えてきた問いの答えを
Wikiにあるテセウスの船ページ読んでもあんまり理解できてない (そもそも情報ろくに調べたわけでもない)
その程度の知性しか持ち合わせていないわたしがポッと出せるとは思えないのでw

そもそもこの問題は、
最初から

「人が決めるのは分かってんのよ!!
そのうえで、思索を巡らせることに意味があんのよ!!」

とか

「人が決めるとき、何が

『これがテセウスの船だ』と思わせているのかを、
人が何に同一性を感じているのかを探してんのよ!」

ってお話だったり……
するの……
かな…………?

でもそれってさ、理屈で追いかけられるものではないと思うし……
人、結構、思い込みと勘違いと「なんとなく」 で物事決めちゃうじゃん……?

それでなんとな~く共通認識作っていって
そのままそれが正しくなっちゃうー っていうのが、
良くも悪くも人の世の中であるような……

う~~~~~ん

うん

わからん!

 

とりあえず、学術的にはダメダメ意見だったとしても
わたし的にはスッキリできたから、まぁいいや!

(そもそもわたしが学術的にヨシヨシ意見を言えるとは思ってないし)

なおWikipediaさんによると、船の同一性に関して、法律上では下記のように定められているそうです。

現代の船舶は部品の交換や改造・所有者の変更は可能であるが、建造時に付与されたIMO番号は廃船となるまで変更されないため、同一性は保たれている。

Wikipedia> テセウスの船> 実例> 船・乗り物 一項目め より

つまり番号が同じであれば
部品をすべて入れ替えても
船の形をガラリと変えても
同一の船であるとみなされる、
とwww

(さすがに別船に変身レベルで改造したら怒られる気がするけどwww)

(……と思って軽く探してみたけど、あれ……?
それらしい情報が見当たらない……
えっ…………?
IMO番号の付与に船のサイズや種類や用途は関係ないっぽいし

えっ漁業船を豪華客船に改造するとか、ありなん!!?
探せてないだけかな!!?)

(どのみち、現実的ではないお話だけどw
IMO番号は世界規格だけどそれとは別途で日本の法律に則った船舶の登録が必要で、その際に停めとく場所の申告も必要になるみたいだから。
小型の漁業船を停めてた場所に大型の豪華客船を停めるみたいなのはあまりにも無理があるでしょww
もちろん、それ以前に「なんでそんな無駄なことをw」案件なわけだしww)

(あっでも引退した漁師さんの船を屋形船に改造、くらいなら現実的にありえるのでは……

お船の法律雑に読んだところでは

「改造の際に安全性は確保しなさいよ、あとその際は定期検査とは別途で検査するからね」って感じだった
えっ…………
割とまじで改造というか
古い方をぶち壊して新しく作り直しても行けるの……では……??

誰もやらない、困らないことを法律に定めておく必要ないし

安全性と管理上での問題がなければ、あとは持ち主の裁量に任せてるよ って感じなのかな……もしかして

(脱線が長くなった すぐに長くなる
閑話休題)

「(IMO番号によって) 同一性は保たれている」ってあるけど、
物理的な要素ではなく番号の付与によって同一性を確保しているって
もはや主役は船ではなく権限の方にありますよね。
なんというか、まさに概念、精神世界のみでの存在という感じだ……

そして法律というものも突き詰めていけば概念の集まりですから、
この記事でお話ししたテセウスの船っぽいですね。

法律は、正しさ、正義の象徴ではあるけれども、
その印象ほど絶対正しいというわけでは実はなくて、
人々の感覚、代表者の意見の積み重ねでできているところがある。

絶対的な正解がありそうに見えて、
それを掴むことはかなわない。

なぜなら、それはどこかに正解があるものではなくて
移ろいやすい人々の心の中から、
移ろいにくい合意を探っていくものだから。

なんか……
「幸せの青い鳥」を連想させますね…………

テセウスの船から法律へ飛んで
まさかの青い鳥へ着地w

いや飛びっぱなしかもしれないけどw
鳥だしww

幸せの青い鳥は

「幸せは遠くを探し回っても見つからない、身近にある。
そのことに気づこう」という寓話ですが

最初からその結論へたどり着くのが良かったか?と聞かれたら、
そんなことはないだろうと思うのです。

鳥を探す道のりには発見があり、楽しい時間があり、
時には苦しい出来事にも遭遇したかもしれないけど
それも含めて
青い鳥のもたらしてくれるとされた幸福に見劣りしない、素晴らしい思い出の数々であるはずなので……。

加えて、

「そこを探しても答えはない、
ということを探している」

という考えも、できるのではないでしょうか。

答えが見つかりそうで見つからないところを探し回ることも
答えが無さそうで実は在る場所を見直すことも

きっとどちらもがそのとき通って良かった体験であり、
大切にしていったらいいのではないかな、と思います。

すべての意味付けは人間の精神世界で決められること……
テセウスの船と同じく存在などしない、
幻、なのですから。

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