足をひっぱるより、手を差し伸べるより、憧れに追いつくことで共に在ろう

人には「共感したい」「同化したい」という願いがあるように思うのだ。

 

足を引っ張るって。

「あいつを引きずり下ろしてやりたい!」という想いは、
本質的には「相手を下げたい」よりも
「相手と共に在りたい」という願いなのではないかと。

けど自分が上がることはできない (やりたくない) から、相手がこちらに来てほしい、という。

“相手を”「不幸にしてやりたい」んじゃなくて、
“自分が”「今いかに不幸を味わっているか、理解して欲しい」のではないかと。

 

手を差し伸べることは、
そんな辛さを抱えている人たちを「そんな辛いところにとどまっていないで、喜びあふれる生き方においでよ」と引き上げることですね。

美しくて尊い精神なんだけど、ひとつ大きな罠があって、
「相手の力を奪ってしまう」ことがどうしても避けられない。

本人の力でなんとかしなければいけないところを、先回りで助けてしまったら、どんな困難を乗り越えても自信にならない。
更に、相手が助けを求めていなかったなら、自由意志すら奪ったことになる。

助けたことが依存心を育ててしまったら、
人に助けられることを期待し、自分からは何もできなくなってしまう。
助けてくれない周りを恨み、助けてくれても「自分はそれを望んでない」と憤り、そんな自分の怒りが正当だと信じてしまう。

既にあるものをダメ出しするだけの受動的な生き方になってしまう。自分の人生を自らで創り出すことなんて思いもよらない。

 

人を助けるというのはとても難しい。

そんなとき、周りはどうすればいいのだろう。

 

これはもう、本人が「幸せに生きたい」を実行する気になるまで待つしかない。

 

気長な話ではあるけども、ただ待つよりも近い道がないわけではない。

それが「周りが幸せそうであること」だ。

 

最初は「なんで自分だけこんなに恵まれてないんだ。あいつら幸せそうな顔しやがって。みんな不幸になればいいのに」と拗ねるかもしれない。

やがて「あいつら自分たちの幸せだけでこっちには配慮もねえの?少しはおすそ分けでもしてやろうって気にならないの!?」と逆恨みを募らせるかもしれない。

 

けれど更に時が経てば「自分も幸せになりたい」「仲間に入れてほしい」

「どうしたら、自分も幸せの住人になれるんだろう?」と真面目に考え始めるだろう。

 

その時初めて「こんな風にするといいよ!」という言葉をかけることができる。

あくまでも、本人の自由意志で選択した道でなければ意味がない。


あっちなみに

本当に八方塞がりで困ってたり命に関わる場面では、様子見とか考えない手助けが素晴らしいとおもいますよ!もちろん!

釣り人の話あるじゃないですか。
「飢えてる人がいます。魚をあげますか?魚の釣り方を教えてあげますか?」ってやつ。

模範解答だと「魚をあげてしまったら“次も次も”となってしまう。自分で食糧を賄えるよう釣り方を教えるべきだ」ってなるわけですが

 

いや飢えてんだからとりあえずごちそうしようよ (しぬよ?)

 

って個人的には!ツッこみたく!候!!

 

お腹が膨れたら魚釣りを覚えよう。

与えてもらうだけの依存人生は、一見恵まれてるけど幸せではないよ。

幸せの必須条件である自由意志の反映が、そこにないんだもの。

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