なんで繊細な人間なんていう“ハンデ”を背負わなきゃいけないんだよ!

繊細な人は 細部まで 氣が行き届くという

けど “繊細な人”であるだろう わたし よりも
そうでない 人たちのほうが
実際の生活を 丁寧に豊かに 送れているように 見える

わたしは
“そんなこと”
“氣にしなければいいのに”に
消耗する ばかりで
生活に割くエネルギーが 残らない

楽しいことばかり しているから
そうは見えないかも しれない
けど
楽しさから エネルギーを生まないと 動けない
常に 自転車操業の 状態なんだよ エネルギーの

 

わたしは 物覚えが いいとか
理解が早いとか 言われる

でも ほかの ひとたちに
それらが不足しているとは 思えない
暮らしていくに 必要なだけあれば じゅうぶんなんじゃ ないのか?

 

HSP エンパス ギフテッド…

人から 羨まれる 才覚を
持っているのかも しれない

 

だけど それらが
足かせにしか ならなくて

ない方が 負担少なく 豊かな人生を 送れるのなら
なぜ こんなものが あるのか
ない方が しあわせじゃないか

 

長所が 自分も誰をも 助けることがなく
短所が 自分も誰もの 足を引っ張るのなら
もう 消えたい

邪魔 したくないんだ

邪魔者に なりたくない

 

だけど 現実
私は 役に立たない
役に立つ 努力も できない
努力もせず 楽に 楽しそうに
お荷物になることしか できない

 

感性を育てなければ ラクに生きられたのか

じぶんが 役立たずだと 氣づかないくらい 考えないくらい

無神経なままでいたほうが しあわせだったのか?

 

……わたしだけじゃない。

繊細で感受性が豊かで、
意識的であれ無意識的であれ
様々なものの影響を受け取ってしまうひとたちは、
みんな苦しんでいるように見える。

 

感受性を失った世界は滅びに向かう。

だから、世界の維持や発展を望むなら
人々の感受性は無くされてはいけない。
育てられなければいけない。

 

だけど、すでに感受性の滅びかけている世界において
感受性を育てていくという生き方では、
個人の幸せを得るのは難しいのではないか?

ただの邪魔にしかならないのでは?

本当、どうして、こんなものを持ってしまったんだ!
こんなものが、人の中に存在してしまうんだよ!!

 

…………だったらいっそのこと、
この世から繊細さ、感受性のすべてが失われた方がいいと思うか。

 

…………それは、こまる。

世界の感受性がなくなったら、芸術作品が消える。
漫画読みたい。ゲームもしたい。
美しい感性に触れたい、奥深い世界観を味わいたい。

 

受性がなくなれば、芸術作品を求める心も失われる。
芸術に触れられない物足りなさを覚えることもなくなるだろう。

自身はどうだ。
今持っている感受性のすべてを、失いたいと思うか。

 

それはいやだ

 

なぜ。
苦しいのに。疲れるのに。
こんなものなくなればいいと願っているのに。
ないほうが幸せに生きられるのだろう?
それなのに、なぜ?

 

えー…… うーーーーー…………

楽しみたいから……?

感動を覚えたいから?

 

感情でも、知的好奇心でも、満たされるとたのしい。

少しの事実から、たくさんの物事を推測できるとたのしい。

物語を、深く味わえるとたのしい。

 

これは本当にたのしいし、
こういう楽しみかたは感受性があってこそできることだから、
失いたくない。

むしろ本当は、もっとほしいくらいだ。
生きるのが苦しいから、恨み言が出るけど……

 

それだ。

繊細で豊かな感受性が存在する理由は、それなんだ。

感受性は、人生をより深く、味わい楽しむためにある。

人生を楽しむためには、感受性が必要なんだ。

 


 

感受性の豊かな人たちはきっと、
苦悩を引き受けてでも
人生をより深く味わい、楽しむことを選択してきた人たちなんだな……

 

感受性の乏しい人たちとか、
表面がどんなに楽しそうでも
『この人には、人生の深い味わいとかないんだろうなあ』って思うもんね……

※それが悪いという話ではない。
彼らなりに人生を楽しんで味わっているだろうし、
そういう人たちからは私こそ「その人生の何が楽しいの?」と見えるだろうし

 

繊細なひとたちの苦悩の深さが
そうでない人たちに理解されることはないけど、
同時に、喜びの深さも理解されないってことなんだろうな。

 

「HSPは苦悩も大きいが喜びも大きい」って言葉、

『苦悩大きいんじゃねぇか
喜びなんてあってもあるってほどないだろばーかバーカぶぁぁぁぁ~~~~か!!!!!』って思ってたけど、

 

実際は、大きいんだろうな、
喜び。

自分で思っているよりも、ずっと。

 

関連リンクとかコメントとか

繊細なひとたちの苦悩の深さが
そうでない人たちに理解されることはないけど、
同時に、喜びの深さも理解されないってことなんだな。

山の雪と都会の雪

雪の美しさを共有したかった


すでに感受性の滅びかけている世界において
感受性を育てていくという生き方では、
個人の幸せを得るのは難しいのではないか?

ちなみに、この記事の内容を思ったときは
きちんと生活している人たち (なお非HSP) を前に
なんもできない (しない) 自分、という配置だったから
希望を持つのが難しかったけど、

今コレ書いてるときは

『もう合わせてくの無理じゃーん!! ヤメヤメ☆(゚∀゚)

って割り切る方向性に切り替えたので、
「幸せを得るのは難しい」とあまり思ってないです。

要は、基準が感受性であれ別の何かであれ、

「社会に望まれる方向性と
自分の望む方向性が違うにも関わらず、
社会に合わせながら個人の幸せを得るのは難しい」

てことなので、

“社会の望む方向性”を考えるのやめられればかなりラクだし、
そのまま好きなことに打ち込んでると
なんかもう既に幸せである……

 

やってることはあんまり変わんない氣もすっけどさ!
「社会にお世話になりながらも還元していない」というな!!

んだけどもう

おれは (社会的に真っ当とされる) 人間をやめるぞ!ジョジョ──ッ!!


感受性を失った世界は滅びに向かう。

カタカムナという古代科学を元に。

真面目に説明すると長くなりすぎるので
超雑に省いた説明で済ますと、

「感受性が無視されるようになる
→ 目に見えるもののみが評価されるようになる
→ 我こそが優位に経つのだと争いが起こり、潰し合って滅びる」

という感じです。

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