「世界にふさわしい支配者は誰なのか」

ある日届いた平和を謳うチラシに、
タイトルの文言が入っていました。

宗教系だったから、
「それは我々(の神)」という答えに繋げたかったんだろうね。

「だから皆が我々の仲間になれば、世界は平和になるのだ」、ってね。

 

悪いけど、わたしは、
「支配者」という発想をしている限り平和は来ないと思ってる。

まずわたし自身が、支配されるのはゴメンだ。
支配する方に回るのもゴメンだ。

支配のすべてが悪いとは言わない。
わたしと関係ないところでやってるならいい。
けど、なんせ「世界の支配者」だ。
わたしのことも支配の対象なんだろう?

じゃあ、支配と被支配の関係のもとでは平和でいられないわたしを
あなたがたはどうやって平和にしてくれるの?

 

世界にたった1人、わたしだけが問題なのであれば、
わたしが我慢して支配を受け入れれば、もしくはわたしを排除すれば世界は平和になるか?

そんなことはありえない。
わたしという嫌がる人間がいるのだ、他にも同じような想いになる人間がそれなりにいるはずだ。

誰か…少数派に犠牲を強いることで実現される平和なら、
行く末は今とさして変わらないんじゃないか?

だったら、世界にふさわしい支配者は
今支配している者のままでよいという結論になるのではないだろうか。

(「今の世界に支配者がいるのか」という点についてはコメントしがたいけれど、人でイメージしづらくても「お金で支配されている」とは言えるはず)

 

支配と被支配の関係はどうしても、所有の関係になるから、
真の信頼関係や感情的な繋がりを築きにくいんだよね。

あと、被支配者は自立心、そして自尊心も奪われていく。
自分で考える事を忘れていくから。

こういった要素は
人が幸福感を持つうえで不可欠なものだし、
人々の幸福感は、平和を実現するうえで不可欠なものだというのに。

キャッチコピーを考えた人は、そしてこれを配布することを決定した人は、
そこまで深く考えて作ったわけではないのかもしれない。

だとしたら、
支配され、誰かに物事を委ねるのがもう当たり前になっているんだろうね。

わたしはそんな、自らの心と意思を手放した人たちの仲間にはなりたくない。

 

もし、

「人々は考えることに疲れているから、我々が導いてあげよう。
支配者のもとで安心して暮らせる事をほのめかしてあげよう」

という意図のもとでこのキャッチコピーを採用したのなら、

余計なお世話だ。そしてわたしに暮らしていける未来じゃない。
そんなものを提示する人たちの仲間に、わたしはなりたくない。

それでもあえて“支配者”による平和を追求するとしたら、
1人(少数)が大勢を支配するのではなく、
大勢の1人ひとりが、自らの人生の支配者であることだと思っている。

 

少数の者が支配する世界よりも受け入れられないと思う。
自分で考えることよりも、支配を受け入れるほうがラクではあるから。

 

それでも、これが実現したときの自由と喜びは、
支配者が定めた枠内でしか感じられないそれらより、
とても深く濃く、大きなものになるから。

タイトルとURLをコピーしました