人間は、喜びを自己完結できない生き物


わらたw
ほんとソレねwww

わたしも今は (不安に呑まれているとき以外は)
評価どうでもいいな、自分が喜ぶために活動しているな、って自覚でいるんだけど、
でも、じゃあ「公開しないで各活動を続けていけるか?」って問われたら『自信ないです』なんだよね。

これはどうしてなんだろう?って考えたとき、まず最初に
『人の視線には力があるからかな』と思った。

人の視線、特に、好意的な想いを含む視線を向けてもらうことは、力になる。
「評価が欲しい」という思いがなかったとしても、心地いいのは間違いない。

この心地よさが行き過ぎると「評価をくれ」になってしまうわけだけど、
この欲求が湧くのはつまり、自分だけで自分のエネルギーをまかなえない状態にある、ということなのでは。

他人のエネルギーを渇望しているということ。
自己満足という体験に至れないということ。

他者評価に頼らざるを得ない人の中には、
評価が欲しい(嬉しい) の前に自己満足という喜びもあるのだということが分からない人もいるのではないだろうか。

その心境を体験したことも当然ないから、
であれば「評価されたいんでしょ」という解釈にしかならなくても不思議ではない。

……あれ、
「自己満足が分からない人の話」に逸れちゃった。

これだと、

「自己満足のためにやっているけれど、しかし他者からの評価もやっぱり欲しい、もらえると嬉しくなるのはなぜか?」の説明にならない。

評価がなくても自己満足できるなら、
喜びを自己完結できるのなら、自己完結すればいいよね?
わざわざ他者を呼び込まない方が、いろいろと面倒もないのだから。

にも関わらず、自己満足を追求している人すら、
他者評価が欲しいのは、もらえると嬉しいのはなぜなのか?

これを突き詰めていって思ったのは、

人間は、喜びを自己完結できない生き物 なんだろうなってことです。

自分で喜びをまかなえても、評価を必要としていなくても、
自分一人だけでやっていると、そこに流れが生まれないんだよね。

自分という区切りの外へ流し出して、人の目に触れるところへ置いて、
実際に人の目に触れたり、反応をもらうことで相手からも流れを受ける。

交流。

交わり、流れる。

心へそういう栄養補給も、必要な生き物なんだと思う。

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