闇と悪は同一ではない

闇とはただ、見えないということ、
闇鍋なだけであって、
悪と同一では決してない。

 

ただし、悪(悪意) は闇に潜みたがる。

悪(悪意) には
「見られたくない、見つかりたくない、明るみに出たくない」と思う性質があるからだ。

必然的に、
光の色濃く届く範囲では悪(悪意) に出会いづらく、
闇をくぐる際には悪(悪意) に怯えやすくなる。

 

本当は、光の元であっても
悪(悪意) と出会わないわけではない。

光(善意) を偽ることに長けた悪(悪意) も存在するし、
光(善意) を操ることに長けた悪(悪意) も存在する。

悪(悪意) を善意と言い張り、実情ではなく影響力によってその内容が貫き通されていることもある。

 

同じように、闇に潜む者が悪(悪意) ばかりということもない。

「見られたくない、見つかりたくない、明るみに出たくない」という想いを抱くのは、悪意の有無と関係ない。

後ろめたいことをしておらずとも、人目にさらされないことの安心感というものは存在する。
否定の多い世の中で、それは仕方のないことだ。

 

だから闇には悪(悪意)だけが潜むのではなく、玉石混交様々なものたちが、息づいている。

 

光も度が過ぎれば白き闇となり、
暗闇の持つ「見えない」という性質を帯びるようになる。

闇も注意深く付き合えば、
視力に頼らず様々な存在の在り方を感じ取れるようになる。

光へ過度に依存するのは得策ではなく、
闇を過度に怖がる必要もない。

 


 

……闇のもたらす「人目にさらされないことの安心感」について、
一例ってこれなんじゃないかなあって、わたしは思うのだ。

さまざまな人が彼の呼びかけに応じているけど、
目隠しがなかったらもっと人が減るんじゃないかなあって。

彼が、彼に届く“光”を覆い、
“闇”の状態だったからこそ、
彼の元へ行きやすくなった人もいるだろうなあって。

そこには必ず受け入れてもらえる安心感があり、
先入観、偏見、攻撃心等への恐怖心を持たなくていい安心感があって……

 

そして逆に、相手からは丸見えなのに自分は目隠しでハグを受け入れるのは、勇気が要るだろうなあとも思います。
それこそ、自分が攻撃の対象になりかねないわけですし……

そうじゃなくても、いきなり抱きつかれたらびっくりしますよね。
相手の背丈も何も分からないですから。

(でも、抱きつかれて子供の背丈だと分かったときは、和みそうだなあw)

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