性善説も性悪説も違う、人間は選択者だ


そもそも「善悪」を判定するのは人間であって、
広く自然や宇宙の観点からは善も悪も存在しない。

そして、

善というのは原則

「個人の欲求に反しても社会(他者)の利益を優先すること」であり、

悪の方は

「社会(他者)に損害が生じることになっても個人の欲求を優先すること」に定められている。

人間の知性や認知能力、感情のパターンは個々様々なので
これだけの指針で誰もが受け止めることは不可能なため、

個人の欲求を潰しすぎることが悪とみなされることがあったり、
社会の損害が善とされることもあるなど
複雑に展開してはいくのだけれど

本質を突き詰めていけば、

善悪とは「社会の利益(利他)」と「個人の欲求(利己)」のせめぎ合いである

ということで
間違っていないはずだ。

そして、人間として生まれている以上
個人の欲求を持っていないことはあり得ず、
他者との関わりと全くの無関係でいられるということもあり得ない。

仮に山奥でたった一人孤独に暮らしていたとしても、
それは人間、人間社会との付き合いがないというだけであって、
他者との関わりが全くないということにはならない。

たとえば、食糧を乱獲すれば生態系が壊れる可能性がある。
これは自然環境と付き合っていると言うことができる。

また、そうやって自然環境を破壊した場合、未来の自分が同じ暮らしを続けていくことを望んでも不可能になってしまう可能性が高い。

上記で「個人の欲求」と表記したものは
「個人の“今の”欲求」のことであり、
「社会(他者)」とはそれに属さないもの全てを指している。

だから、広い視点で眺めるならば自然環境や今でない時間(の自分)なども“他者”に含まれてくるわけだ。

“今の”という言葉がどのくらいの長さを指すのかは、断言することができない。

怒りのピークは6秒だと言われている。
だから6秒かもしれない。

高まった恋愛感情が言わせる“永遠”は20分先までしか想定できないらしい。
だから、20分なのかもしれない。

どちらも冷静さを失った状態での脳反応だから、
もっと落ち着いていれば、
そして落ち着けるだけの知性を有しているほどに、
もっと長い時間を“今”として認識できるのかもしれない。

子供の言う「ちゃんとお世話する」の長さよりも、
大人が見据える「ちゃんとしたお世話」の方が長いだろう。

そうした特別な場面ではない、普段の暮らしの中では、
今日の晩ごはんまでが“今”の人もいれば、
数ヶ月、数年後の見通しまでが“今”の人もいるだろう。

人としての時間を超えたかのように、何十年後、何百年後を“今”の一部として認識している人も、いるのかもしれない。

ネイティブアメリカンには、物事を決めるときには何事も、子々孫々7代先までの影響を考えよ、という教えがあるらしい。
そんな彼らにとっては、7代先の時間も今現在の一部であるのだろう。

「未来(今でない時間)の自分も他者である」
「今とはいつまでだろうか?」に
話が逸れたけれど、

個人の欲求の大部分が他者に利することと一致していたり、
個人の欲求を律し貢献の意識を持ちながらも社会へ害することを行ったり、
ここでもまた様々に、人の認知機能や感情によって、現れ方は複雑化していく。

だから分かりづらさもあるけれど、

人間として生まれている以上、
個人の欲求を持っていないことはあり得ない。

個人の欲求は誰もが持っており、また誰もが従ってゆける。
しかし“他者”の範囲……利他を示せる範囲 については、人によって大きく異なる。
そのうえ、同じ個人の中であっても余裕や対象への思い入れなどによってさらに変わってくる。

しかもここで、「余裕」という要素にも一癖がある。
余裕を失ったものが他者に構っている場合でなくなることは分かりやすいが、
では余裕があれば利他的になれるかというと……
余裕のある者は他者の不利益へ無頓着・無神経になりやすい、という側面もある。

「思い入れ」も、それがあるからといって心構えや言動が適切になるとは限らない。

そのため、全体として見たとき
「人は“個人の欲求≒悪”へ傾きやすい」という見方は納得できるもので、
「正しいのは性悪説の方だ」と言われても反論する気にはならない。

しかし、ひとたび“他者”を認識してしまったら、
その認識が深ければ深いほどに、
ぞんざいに扱うのは難しくなる。

他者の不利益が真に自身へも迫るものとなったとき、
その人が利他的ならばもちろんのことだが、
利己的であったとしても
“他者”を害することは難しくなるはずなのだ。

そのため、この部分をよくよく認識したならば
「正しいのは性善説の方だ」という意見に賛同できる。

だから、
性善説と性悪説について、
「どちらが正しいのか」で考えることは適切ではない、

選択肢に囚われることでもっと重要なことが見えなくなる思考の罠にはまっている、と、
そのように思うのだ。

性善説が正しいわけでも
性悪説が正しいわけでもない。

人間はどちらの性質も持っており、
その中で何を選択していくのか決める力を有している。

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