木星が幸運の星なんてのは人間が勝手に言ってるだけ

占星術においては

「幸運の星」とか「恵みの星」とか言われる木星だけど、
最近、単なる「過剰にもたらす星」に過ぎないのではないか?と思うようになった。

土星も同じような感じで、「剪定の星」。

試練とか厳しいとか知らんわどーでもええわ
人間が勝手に辛がってるだけなんだわ

そもそも占星術の読み(の元となる波長)は人間(社会)における道徳規範なんてどーでもよく、「ただそうあるだけ」なもので

これが当てはまるのは社会的な価値判断だけでなく、個人の価値判断においても同じはずなのだ

社会における正しさなんてどうでもいい、
個人の思う吉凶だってどうでもいい。

 人間の価値判断なぞ、星々にとって宇宙にとってはどうでもいいのだ。

占星術の情報において、

「社会の価値判断は関係ない」はよく聞くんだよね。

その一方で、吉凶や幸不幸といった個人の価値判断に関しては疑うことなく織り込まれている。

そらそうならざるを得ないやろ、って氣はするけど……
何へどんな風に対するとしてもどんなに認識が広がったとしても、個人の主観や快不快の感覚から逃れることは実質不可能なわけだから……

占者側がそういった思考をできるようになったとしても、大多数はそうではなく吉凶で物事を受け止めるし受け止めたいのだから、そういった相手へ情報を伝えるとなればどうしたって、ね。

社会における善は原則
集団の規律を保つという目的に基づくから、
それに反する個人の欲や心地良さと言ったものは否定してくるのよな。
反しないものは明文化する必要がないから放っておかれて、存在を認識されないし。

という前提があるから、社会の価値判断から逃れられることは、個人にとって嬉しいことなのだ。

高潔な人間になれないことで苦しみ、占いに頼った者が「占星術に善悪は関係ない」という案内をされれば、その世界に住みたくもなるだろう。
だから占いは、適切な癒やしを提供する反面危険な依存も生みやすい。

そうはいっても人間なのだから、高潔になんてなかなかなれない。
欲しいものは欲しいし、苦しいことは苦しい。弱り目にあれば救われたい。
災いの中にあって、それが転じて福となす可能性を信じることは難しい。
災いは、凶は、福の種ではなくやっぱり災いであり凶なのだ。


そのような価値判断、個人の利害を超えた視野から占術を扱おうとするのはごく一部の者のみなのだから、
個人目線での吉凶判断は色濃く残っている……

そんなところではなかろうか。

 

人間の都合どうでもええわと言いつつも

力強く、味方してくれているとも思っている。

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