失敗と無理解のせいなのか単に自分が愚かで低能なだけか

 


 

わたしも自信を取り戻せる日が来るんだろうか
(;ω;)

いや「自信がない」と言うと違和感あるけど

『よほどの事情がない限り

「働かざるもの食うべからず」が社会通念なら
自分はその社会の中で生かされるより殺されるべきでは
動けないけど、それが“よほどの事情”に当てはまるのか怠けてるだけなのかよう分からんし』

って思ってるだけで
個人として自信がないかと聞かれると、あんまりそうでもない氣がする

社会常識やシステムと
自分自身を調和させる道が
どうしても分からないし
分からなすぎて考えるのも嫌になり
脳みその処理も止まっちゃうので

時間ばかりが過ぎていってしまう…………

なんてことを自分で言うと、
やっぱり怠けてるようにしか見えないかな……

わたしとしては、思考や自覚と体の状態が一致してるだけで
仮に思考の方をなんとか動かしても努力しても
体(脳含む)はごく短時間しかついてこない、ついてこなくなってしまったので
がんばってもムダだからがんばるのをやめた、
要らん苦悩を考えても無駄だから省いてる省エネしてる、って認識なんだけど……

でも
「がんばる氣がない」
「思考の望みどおり過ごしている(怠惰に)」
の2点は怠けの特徴と合致してるから
怠け者だと言われたら否定できない

というか実際、怠け者ではあると思う
そこはもういい OK

だけど
「働かざる者食うべからず」を言われたり思われたり
社会がそれを当たり前としている ってことに
頭回っちゃうのが
つらい

確かにわたしのご飯やお家やその周りの歩ける雪道は
日々安定して勤勉でいてくれるひとたちのおかげで維持されておるよ…………

わたしは……
わたしは
能力には恵まれていたと思う
工夫も結構してきたと思う
忍耐や努力もそこそこしたと思う
そして人にも環境にも恵まれていたと思う

それでも脱落しているので
新しい可能性を提示されても希望を持てない
もう適応のために歯を食いしばるのヤダ
ムリ

わたしはこれだけ恵まれていても脱落しかできなかったエリートダメ人間なんよ……
ダメ人間の
超エリート

「働かざる者食うべからず」が社会正義なら
どうしても動けない、動かない怠け者には
ムチを打つのではなく処分へ送るというシステムに

いかんいかん
いかん考え

自分はもう
『そうなっていい、むしろ早くラクになりたい』に足突っ込んでるけど、
わたしがそれを肯定することは
他の人たちをもその考えへ巻き込むことになってしまうから
だめ

わたしが言うのもなんだけど、
寿命が尽きるまで可能性は捨てないで欲しい

そこまで耐えねばならない長さと苦しさは
わたし自身も日々体感しているところではあるけれども

しかしわたし自身に関しても、自分の目線からは

『もうこの世を去りたい、この世界と自分が調和できると思えない』

けれども

他者の目線として眺めたら

「いや、全然可能性あるッしょ!
どんなに長く感じても、寿命が尽きるまで信じてみる価値はあるよ
奇跡は起きるときには起きる
幸運は来るときには来る
不安は払拭されるときには払拭される
劇的に」

ってことを、
全然思うのだ

そんな奇跡とか可能性とか別になくても
ひとつの人生を最初から最後までたどることには意義があると思ってるし、
意義なんてなくても過ごして良いとも思ってる

……と、他者の目線からは思ってる

自分の目線としても思ってるけど
わたしは自分の意見を、堂々と主張していいのか分からないので……
何なら主張しても大丈夫で、何だとダメなのか分からないので

意見が違うことなら歓迎するけど
無理解で否定されることには許せない感情が湧く
社会正義で押し切られることには恐怖を感じる
「それぐらいなら大丈夫だよ、氣にしなくていいよ」の“それぐらい”は分からない
周りの真似をして自分だけ失敗したり叱られた思い出もある
だから要領が悪くても馬鹿だと思われても厳格に基準を守って安全地帯を通りたいのだけど、それを実行できるほど自律できる人間でもなかった
それに、自分の幸福を掴むためにはもっと柔軟に行く必要があるようなのだった

なんでみんなは上手くやっていけるんだ……
上手くの方向性がごまかしだとしてもそれも含めて

どうしてこんなワケの分からない環境で、上手くやっていける人が大勢いるんだ?

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