世界は実は、わたしや彼に見えている景色よりも、とてもやさしいところなのかもしれない

 

目障りだからと殴り殺されたホームレス女性、だけど……

情報収集をしている中で、このようなお話を目にしました。

「ホームレスの存在は害悪だ。
だからそいつら(の命)なんてどうでもいい」

という思想を、まさに実現されてしまった事件です。

加害者の男性は、殺すまでするつもりはなかったようですが。


このお話は、出来事の表面だけをなぞれば
「世も末だ」「世知辛い」
「やはり人間なんて信用するべきじゃない」
と、
優生思想、努力信仰、人間不信……
そういったものたちの促進をできる内容です。

しかし、
前者の取材記事を読み進めていくと、
近隣の方々は思いのほか、優しい思いでこの女性を氣にかけておられたことが伝わってきます。

この中には、大林さんの姿を写真に収めたことがあるという男性もいた。バス停で何度か見かけ、心配になって友人に知らせようとスマートフォンで撮影したという。

男性は、写真は撮影したものの、大林さんに直接話しかけたことはなかったという。

 
写真を撮影した男性
「女性がこんなところで寝ていると危ないので、声をかけたいと何度も思っていました。でも、わざわざ声をかけることはできなかった。そのあたりに関してはみんなそうなんじゃないか」


この記事に載せられているコメントは多くはありませんが、記述から察するに、このような言葉を発された方がもっといらしたのでしょうし、

そしてもしかしたら、取材が及ばなかった範囲にも、同じ想いを抱えていた方はいらしたのではないでしょうか。

「取材で見えなかった範囲にあった優しさ」を想像するのなら、同時に
「取材で見えなかった範囲にあった悪意」も想像できることになります。

加害者と同じ氣持ちを持っていた人が他にもいたかもしれませんし、
取材へ応じた方の中にも、言わなかっただけで“不審者”を恐れる氣持ちを持つ方はいたかもしれません。

でも、人間なのだから、そういう氣持ちが湧いてきてしまうことがあっても、そこまでは仕方のないことだと思うのです。
近隣にお住まいの方にとっては、自分の生活拠点から近すぎるわけですし……

惜しむべきは、
善意よりも先に悪意が成果を出してしまったことであって、
人々の中に恐怖心や警戒心が湧いてしまうまでは、仕方がないように個人的には思います。

蛇足ですが。
どうしたら、この方へ、助けの手を繋げられたのかな、っていうお話。

わたしが話しかけるとしたら、暖かいコーンスープ缶でもいっぱい買って、

『コレ好きなんですけど、調子に乗って買いすぎちゃったんで、いくつかもらってくれませんか💦』とか持ちかけるでしょうか……

で、しれっと隣で缶を一本開けて、勝手に喋り始めて、女性をなんとなく巻き込みながら雑談に入って、ゆるっと事情を聞く方向へもっていって、福祉をお勧めして、繋げていく……
焦るべきではない説得が必要になる可能性もあります。一度ではなく何回か通う必要もあるかもしれません。
という流れを想定しながら、様子を見つつ早めつつで、かつ無理のない範囲で実行していくかなと思います。

でも、これは、事件を知ったから、頭の中で想像しているだけだから思いつくことであって、
日常の一場面に過ぎなかったとしたら、
やっぱり、何もできなかったように思います。

この部分は、記事において完全に余計な要素なので、書くべきではないとも思ったのですが、
書いておけば、もしかしたら、誰かが使えるかもしれないと思ったので。
たとえば、上記でコメントを引用した男性なら、女性のご存命中にこういうアイデアを持っておられたら、戸惑わずに声をかけてくださったかも、しれないので。

 

上記のニュース記事 (取材ではない、後の方の記事) には、
通報の内容に、

「いつもいる人が倒れている」

って書かれてるんですよね。

いつもいる人」。

通報された方ももしかしたら、日常のなかで、
ほんのりと、女性のことを氣にかけておられたのかもしれません。



こういう、周りを取り巻く人たちのあたたかさ、優しさに氣づいてしまうと……

「あたたかい、優しい想い」というほどでもない、
ニュートラルな認識に過ぎない人も多かったのかもしれないですけど、

別に「声をかけた方がいいのかな」とまで思わなかったとしても、
敵意を向けないだけで……

嫌悪感や排除思考があったとしても、
それを表に出すとか行動に移すとかしないだけで、
わたしにはあたたかく優しく見えるのです。

だって優生思想、選民思想、努力信仰の持ち主ですから。

無能は消えなきゃいけない
役立たずは殺されても文句言えない
そうならないためにはどんな苦労をも厭わず社会適応しなければならない
それこそ死ぬことになっても。
死ぬことになってもというか、適応できないならどのみち死ぬべきなので、手間が省けてよい。

ちょっと誇張してもいますが、
おおむねこんな描写になる、
そういう世界に、生きているわけですから。

余談:下線ところは否定というか、追い詰める内容です。
人間の思考は使用している言葉の影響を受けるので、
否定的で追い詰める思考回路を積極的に使っていると
何を見聞きしてもその回路に当てはめた思考をたどるようになります。

わたしはこのような人生を選択したくはないので、従わずに来ていますが、
それはつまり「逆らっている人生」を選択してはいるわけで……

“常識”“当たり前”は
「価値を認められていないお前は死ね、死ぬべきだ」の方にあると思っていて、
これを否定することは、反逆であり、悪行であり、
非国民と石を投げられ追放され、そして極端な話殺されかねない立ち位置に自分はいるのだ、
という、認識なわけで……

本当はそんなふうに構える方が、おかしいのだとしたら……

生きる権利は、意識的に構えて断固主張するまでもなく、
認められる方が“常識”であり“当たり前”だというのが、今の社会なのだとしたら…………

あたたかく、優しい想いが、
表現されないだけで、実はたくさん満ちているのだとしたら。

そして何より、
わたし自身も実は
既にそこへ住んでるんだ、としたら。

すぐに馴染むのは難しいけど、
でも、

そんなのあたたかすぎて、優しすぎて、
泣いてしまうのでした。



女性は既に殺されてしまったので、
取り返しはつかないですが……

この女性を取り巻く世界も本当は、
厳しいようでいて
とてもあたたかく優しかったのだと思うと……

どうしても感極まってしまって、
この話を思い出すたびに、何度でも、泣いてしまうのでした。

ふとした瞬間に思い出しては泣くのを繰り返したせいか、
知ってからたった1日が経つ頃には、何週間も前から知っているかのような心持ちになっていました……

生存の権利って思っていたよりずっとマジで絶対っぽい

生存権(人権)について調べていたら、
広島県が作ってくれた「思いやりと優しさのハーモニー」という人権啓発冊子にたどり着きました。


そして、その中にある「3 様々な人権 (3)社会権とは」の始めには、このような文言が。

社会権は,国家によるほどこしではなく,国家に当然のこととして主張できる正当な権利である。

おぉ……

次にあるQ&Aでも、努力信仰が真っ向否定されてて平等の実現について触れられていて、ビックリしました。

長いけど引用します。(フリガナ省略、太字・下線・改行は筆者が編集)

Q:「社会権」は実質的な平等を実現するための権利ということですが,頑張った人と頑張らなかった人との間に差がつくのは当たり前で,それは,頑張った人の努力の結果だし,頑張らなかった人の責任だと思うのですが,どうして国が介入してその差を解消しなければいけないのですか?


A: 確かに,自分自身の努力や,逆に自分自身の責任によって,差がつく場合もあるのでしょう。

 しかし,人の一生は,運動会の障害物競走とは違います。
 みんなが,同じスタート地点に立って,「よーい,どん」で一斉にスタートするわけではありませんし,みんなに平等に同じ障害物が用意されているわけではないからです。障害物のない人もいれば,乗り越えるのが非常に困難な障害物が用意されている人もいるのです。
 それに,誰もが,生まれる時代や場所を選べませんから,あなたが,今,そこでそうしているのは偶然なのかもしれません。

 そうだとすると,その差を生じさせているのは,多くの場合,生まれた時代や場所,病気の有無,会社の倒産など自分の意志ではコントロールできない偶然や運などの力によるものなのではないでしょうか

 ですから,国が介入し,「社会権」によってその差の解消を図っていくということは,国家による施しなどではなく,当然,主張することのできる正当な権利なのです。

なんやこの
平等実現を目指した志高く情け深い文章は…………

日本という国は、こういう思想で運営しますよって、決められてたんですね。
全然お情けの制度だろうって、心のどこかで思い込んでた……

こういう話を、中学校とかで、
叩き込んどいてほしかったな…………。

……と思ったけど、わたし聞いてない&忘れとるだろうからダメだわ……

それ以上に、社会の先生を思い返すと
「そうは言うけどね、『働かざる者~』」
って話と生活保護バッシングを始めそうなので、
やっぱダメだわ……😩

それから、こちらの記事。


一番最初に

すべての人に生存権があることは正当化も否定もできない大前提の価値の1つだ。

って書いてあって。

「否定できない」の方が言われるのは分かるけど、
「正当化できない」ということが同じ重みで書いてあるのにビックリして……!

そうか、そうなんだね。

生存権って、「生きることを否定したらダメだから絶対」なのではなく、

正当性はないかもしれないけれど、
それでも我が国はこれを絶対に守ることとする」

という、意志と選択と決定なんだね。

「どんな命にも価値があるから失われてはいけない」

これだと現実にそぐわない綺麗事かもしれないけど、

「命の価値など関係なく、我々はこれを守るのだ
その実現を、目指すのだ」

だったんだね。

上記の引用部分については、
国家から発された内容ではありませんが、

その意思と意図を充分に汲んだ内容であると解釈してもいいんじゃないかな、と思うので、
わたしはこれを信じてみようと思います。

そして、個人発信のツイートを追う中では、

このように思いました。

こう思うに至る発言をしてくれたツイートは、
国家の定めではなく市井から出たものなので……

なおのこと、ありがたいです。

しかし、これは10年近く前の時点では
まったく違っていたのかもしれません。

先に引用した古市憲寿氏 (「メンタル弱いんですよ」ってフォローしてくれたご友人さん) のご発言で、他の記事から。

◆古市憲寿氏、世間の変化を指摘

また、古市氏は2012年に生活保護が重要な仕組みであることをテレビ番組で話したと回顧。「困っている人に対して生活保護っていうのは大事な仕組みなんだっていうのを結構テレビで言ったんですね。そしたらめちゃくちゃ批判されて。『生活保護なんて不正事業がたくさんあるんじゃないか』とか、『あんなものはひどい』みたいなことが、むしろ多数の声だったんですね」と現在の反応とは異なっていたことを明かした。

「だから、あれが2012年で、今が2021年で、この9年間で結構この国の生活保護に対する在り方とか理解が深まった、変わったのは、それは1個いい変化だったのかなと個人的には思ってます」と世間の反応の変化についても語った。

 

『“やさしいせかい”になってほしい』と常々思っているので、
それが実現に向かっているのであれば、大変にうれしいことです。

もしかしたら、『向かっている』のではなく、『すでに』なのかもしれないですが。

ただし、世界が比率としてどんなに“やさしい”へ傾いていたとしても、
“かなしいせかい”がなくなったとは思えないので、
まだそこで苦しんでいる人たちも、そこにいると錯覚している人たちも、早く“やさしいせかい”へ移行できることを、願うばかりですが……



わたしも、今回の問題の当人さんも、そして
「彼の言うことも分かるよ、みんなだってほんとはそう思ってるでしょ?」という結論の他が見えない人たちも、

「優生思想、選民思想、努力信仰 等々が当たり前」という
“認知の歪みによる世界観”に囚われ、振り回されてはいけないように、
思いました。

自分を改めるならともかく、
人様まで巻き込むのはいくないと思いつつ、

この件は巻き込んでもええじゃろ……
巻き込むべきじゃろ
と、思いつつ。

認知の歪みというか……
これらの思想は当たり前に湧くものであり、そして現実の一部を作っていることも、確かに言えるとは思うのですが……

それは、世界……の中の、人間社会 の中の、
主に 経済活動 という範囲に限定された話であると。

経済活動の中ではどうしても、
生産性や合理性が力を持ってしまいます。

でもそれは、そうでない範囲が存在しないということではない。

資本主義社会だから、経済活動において有利な要素たちが絶対だと思いやすいけれども、
この価値観しか見えなくなったら、それは認知の歪みである。

少なくとも日本は、国として、
優生思想ではなく
国民すべての生存権(等)を絶対とすることを、決めているのだから。

個人がどのような価値観で生きるかは自由で、強制されるものではないとはいえ、

経済活動において優先される価値観が全てではないこと、
国の方針は命の保護を大前提にしていること、

これらはきちんと踏まえ、
知識としてだけでなく、意識としてもしっかりと持っておくことが、

必要だと、思いました。


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