こう、なんとか苦しさを説明しようと (からの盛大な脱線)

ちょっとまった
 
現場で対面してると
メンヘルひっこむこむだし
自分がどう病んで困ってたのかもスポーンと忘れるけど
 
Twitterのタイムラインを、
印刷して持っていけば、
いいのでは…………?

あっ…………

まあ、見たところで
ここから何を受け取ってもらえるかは
お医者さんの器次第ということになるけど…………

ちょっとまって
ちょっとまって
アピールしとくべき情報を思い出すぞ…………

とりあえず私は
内心に関わらず
とても元気に見えすぎるらしいです
 
せや この前提が要る


睡眠不足に弱いです 徹夜はできません
 
にも関わらず、
寝不足で氣分も体調もサイアクだったその日
「ナツキさんはいつも顔色がいいねえ!」と声をかけられました

私は体調の悪さが一切顔に出ないのだな、
ということを否が応にも知らされた
あの時の絶望感は忘れません

 


無職の期間
『年金は転職してから払おう』と
支払いを溜め込んでいました
ほかにもいろいろと
 
しかしいざ職にありつけたとき
計算違いをしていて
『あっ これちょっとヤバい』と氣が付いて青ざめました
 
今でこそお金が手元にないこともあまり怖くありませんが、当時は恐怖でたまりませんでした

恥をしのんで上長に
お給料の相談をさせてもらいました…… ような氣がする
正直、このへんのいきさつはよく覚えていないです

なぜなら、上長が、

(わたしの不安を理解してくれたかどうかはわかりませんが、理解の有無に関わらず)

 非常に親身に相談へ乗ってくれ、対応も即してくれたからです

不安を持ったものの、力強く味方になってくれる人がいて、すぐ解消できたからこそ、あまり記憶に残っていないのでしょう
上長には感謝しかありません

 

しかし
「お金に困ってるようには全然見えないですけどねぇ」って
笑いながら言い放った副長(その場に同席してた)
テメーはダメだ

テメーに何がわかんだふざけんなよボケが

反射的に、そう思いました

 

特に華美な格好をしていたわけでもなく
それどころか化粧すらしていないようなボロだというのに、
一体どこを見て「困ってるように見えない」と判断したのでしょうか。
というか、困っているのは見て分かるものなのでしょうか。
 
見て分かるものならわたしを嘘つき呼ばわりしていることになりますし、
見て分からないものなら指摘をする意味がなんらありませんし、
なんなんオマエ? ケンカ売りたいんか??
 
この会社に居た頃は服をいっぱい買いましたが、
上長が助けてくれたからこそなので、
この相談の時点では着古した服しか持っていなかったはずです。

 

真偽は分かりませんが、
もしかしたら、“顔色”でしょうか…………
 
そのように思います。
 
この副長、ちょっと人としていろいろ欠けているように
わたしには見えていたので、
『この人には人間の内面が見えないのだろう』と思っていました。
 
『そも、お金の不安なんて傍から見えるもんじゃないんだろうなあ』とも。

しかし、後者に関しては、否定材料があります。
 
兄貴が借金苦で借金取りに追い詰められて自殺を頭に浮かべていた頃、
「顔が土気色だよ」
「最近痩せた……頬がこけた?」
「だいじょうぶ……??」
というような声を
職場でかけられていたそうですので

「お金の不安は顔にも出る」が真である氣がいたします。

だとすると、
わたしはお金の不安、ひいては苦悩全般も一切顔に出ないのだと認めざるを得ません。
 
それとも、私の抱えている不安や苦悩は
不安や苦悩のうちに入らないのでしょうか。
 
不安や苦悩しているうちに入らないから、

顔にも出ないのでしょうか。

 


さすがに収集つかなくなってきたから
直接ブログに放り込むわ…………

もぉ………………

はぁ

* memo *

しかし書いていたら
脱線して収集がつかなくなってしまった上に、
ここまでと合わせても
『なんか雰囲気明るいし、結局言ったところで理解してもらえないんだろうなあ』
という所感にしかなりませんでした。

 


兄はメンタル健康の申し子のような人物で、
自殺を考えたのも、人生で一番追い詰められていたこの時期のみです。

一方私は、初めて自殺を考えたのは13歳の頃で、
以降、半年~1年に1回くらいの頻度で
体を動かせないほどの精神の重さを体験しています。

(理由らしい理由・きっかけは伴いません。
あえて挙げるとしたらPMS)

そのうちの何度かは、本気の自殺を考えました。
動けないので実行はできませんが。
痛いのも嫌いだし。

そこまで極端な状態までいくのはいつもでないにしても、
日々、何がしかに苦悩し、負担に思い、
希死念慮とは隣り合わせで生きています。

しかし、30代へ入り、ここ数年は、
楽しんでいる時間がいかに長かろうとも、
手放しで楽しんでいるとはとても言えません。

不安を抱えながら、
重々しい精神の中にも
楽しみを見出し、つくり出し、
わずかなそちらへと意識を向ける訓練を、
常に続けているような感覚があります。

これまでの間、病院にこそ通っていないものの、
何もしていないわけではありませんでした。

考え方、物事の捉え方を変え、
セルフケアを学びました。
これらは確かに私の助けとなってくれ、
“重石のない時間”も与えてくれました。

しかし、身軽になればなるほど、
さらなる重石を自ら背負ってしまう自分がいることへ氣がつくに至りました。

またそれを、自分自身楽しんでいるところが正直あり、
『ああ、これは何をしても無駄だ』と、諦めの境地へと至りました。

自ら苦しい思いに飛び込んで、
そして苦しんで文句を言っている私は、バカに間違いありません。

人に助けてもらう資格がないと判定されても仕方のないことは、わたし自身も心のどこかで分かっていますし、納得もしています。

社会的に抹殺されるしかないのなら、肉体的にも抹殺してくれ、自分ではそれができないから、
と、そういうことなのです。

しかし、そう、苦しむだけではなく、楽しんでもいるのです。

社会の成約さえなければ、私はこの、
苦悩に満ちた重々しい人生が、興味深く、楽しくてたまらない。

しかし、社会の(お金の)成約に追われる限り、手放しで楽しむことも、活かすこともできません。

好きなテーマに苦悩できることが楽しいのであって、
興味のない「金儲け(勤労)」への苦悩は、本当の苦悩でしかなく、私の楽しみも苦しみも心の全てを奪って金に向け、立ち上がれないほどに氣力体力をも消耗させていきます。

現代社会はお金の世であり、
勤労の義務が法律の上をいく憲法に定められています。
教育は、金儲け(勤労)の人材育成を目的としています。

(近年はその方向性が迷走している印象もありますが)

金を払えぬ者は問答無用で悪となり、
自力で金を得られぬ者は時間と自由、そして労力を金へ捧げることになり、
欠乏は物が足りないことではなく
物を買う金がないことから発生する。

わたしは、このルール下で自分が安定できる場所を見つけることができませんでした。

努力の末にあったのは、適応ではなく燃え尽きと、
それを周囲に理解してもらう力に欠けた自分でした。
新しい場所を探す氣力も既に失せました。

そんな楽園があったとしても、そこまで行く氣力が持ちません。
3歩先に生きていける場所が、最高の幸せがあるのだとしても、
1歩を歩みださなければそこへたどり着けないのであれば、もう得ようと思いません。

 

とはいえ、

しかし、そのわたしでも支えてくれる仲間が、兄が、友達がいました。

もう努力も行動も懲り懲りですが、
彼らの厚意がありまだ試していない道を提示されている以上
試してみるのはアリなのではないかと思い、

折れていないだけで折れそうな足をなんとか奮い立たせ、

この1年、突き動かされるように
引っ越し、挑戦、行動等、

楽しみながらも負担とともに、
負担がありながらも楽しみつつ、
そして半分くらいの時間は寝込みながら、

自分なりにではありますが、
やってきました。

その最後の関門が、社会保障制度です。

「生活の不安定は、心の安定を著しく削ぐ。
今は未来に希望が見えないかもしれないけど、
保障が下りて、生活の安定を図ることが
できるようになったら、
必ず状態が良くなって、
活動できるようになるから。
  
働けるようにもきっとなる。
働かなければいけないということでも、
働けるようになれということでもないけど。
そういうのは、
自然に自分の中から出てくるまで、
今は考えなくていい。
とりあえず、生き延びてください。
安心してください」

今のわたしに、不安はありません。
コロナにも貯金なしにも熊にも恐怖を感じません。

しかし、あくまでも「不安がない」であって、
「安心している」かと聞かれたら、
安心もありません。

話がだいぶ脱線してしまいました。

何を言いたいかというと、

元気な兄は、ストレスが顔に現れ、

常に負荷へさらされている私は、
その様子がまったく表に出ないというのだから、

もう笑うしかありません、ということです。

面白くもありませんが。


両親については、
どんなにつらくても、死にたくても、
氣づかれたことはありません。

死ぬほど鈍い人たちです。
比喩でなく、実際、両親の鈍さに我々兄弟は間接的とはいえ死の淵まで追い詰められているわけですし、
本当に死ぬまで氣がつかないと確信しています。

で、いざそうなったら「どうしてそんなことを…!」と嘆くのです。

母は「自分が悪かった」と、しかし明後日の方向へ意味のない反省をしながら罪悪感を膨らませ、
父は「お前らバカか!」と相談もしなかったわたし達が悪いものとするのです。
バカはお前だ。
なんで自分が相談されなかったのかちったぁ考えろ。
そんな知性は持ち合わせてないから考えられないんだけどな。知ってる。

物事を断言するのは好みませんが、
こうなる可能性については断言できます。

(さすがに、父は死人に鞭打つようなことは言わないでしょうが。
だからこれは“未遂”に終わった時の反応ですね。
うん、やるなら遂行しきらないとあとがつらいな)

上述の兄の状態も、
両親は心底氣がついていませんでしたし。

と、言っておきながらなんですが、
兄の状態については私自身も氣づいてはいなかったので
まあ、鈍さについての文句は言えないですけどね。
(とはいえ、話を聞いていたので知ってはいた)

けれども……

……親だから、氣づいてほしいと思ってしまうではないですか。
助けてほしかったと、思ってしまうではないですか……。

実家にいた当時の、子供だった、若すぎた私にはまったく分からなかったけれど、
今なら分かることが、たくさんあります。
当時のあなた方は、なぜ、どうして、って。

こういう感性は、
年齢ではありませんし、
世代の差もありましたし、
両親は、学業はともかく
真に考える頭は持っていないので、仕方がありません。

だけど、それでも……って。

どうして私が、
あなた方の事情や至らなさを汲み、あなた方の予想や期待をはずれないように動かなければならなかったのか?

そのような葛藤を抱えながら、また、

『しかしわたしは、親の立場に自分がいて
目の前に自分がいても、助けにはなれなかっただろう』

という無力感と、

『にも関わらず、親には文句を言うのか』

という葛藤にも板挟みとなり、苦しむのです。

こういった、
文句も、怒りも、恨みもすべてを消しされたとしても、
その先にある、
『どうかこの苦しみの、ほんの一端だけでも、受け持ってもらえていたら』という切な願いだけは、消せそうにありません。

まあ、分かりやすく暴言や虐待をしてくるよりは断然マシなので、これはこれで最良の結果なのでしょうが。
なんやかや、わたしは暴力を振るわれたことないし
衣食住困らず身体健康で独り立ちできたので、
そのことについては感謝しています。

(そう思って納得することへの苦しみもまたありますが)

(今の状態へ至ったのに、「独り立ち“できた”」のか、疑問もありますがw)

 


中学校に、行きたくありませんでした。

3年生の時分ではいじめられていたというのもありますが、
そうでなくとも、雰囲気の良い学校とは言い難く、
「昨日ホームレスを傘で殴ってきたー♪」と自慢する同級生がいたり、
窓から机が放り投げられたこともありました。

 

美術部に属していたわたしが、
趣味で描いた絵を廊下に貼り出すと、
下校時刻までに、必ず破かれていました。

『何とか、こんな心無いことをする人の
氣を和らげることはできないだろうか?』と子供なりに思い、
作品の質を上げる努力をしてみましたが無駄でした。

そんなに技術が上がるわけではないという意味でも、
丁寧さが相手の氣持ちを喚起するわけではないという意味でも。

とはいえ、部に属していない人が
ゲリラ的に貼っていった上手い絵は破かれなかったので、
やはり技術不足か、もしくは私自身に氣に障るところがあったのでしょう。

当時のわたしが「理由はないけどなんかムカつく」という目で見られていたとしても、
それは悲しいながら納得するものがあります。

技術でだめならと
校則に違反しないレベルのおまけをつけてみたこともありましたが、
おまけだけ取られて絵はやはり破かれていました。

 

そんな環境を「元気があって良い」と評する人もいましたが、
わたしにとってはそうでなかったので、
日々の登校はとても氣の重いものでした。

 

親に氣付いてほしい、
しかし氣丈に振る舞わなければならない、
そんな相反する氣持ちの中で、
『いってきます』のたった一言に、
元気さを込めたり、助けて行きたくないを込めたり、
そんな毎朝を送っていました。

 

中学校生活も終わりに近づき、
進学先を決める時期がやってきました。

その頃はちょうど
インターネットが一般家庭に普及し始めていた時期で、
わたしは友達に

『高校へ行きたくない。もう学校生活は嫌だ。
とはいえ、高卒資格くらいはあったほうがいいよね…』等こぼしていました。

その返事で「夜学っていうのもあるよ」と教えてもらい、『これだ!』となったわたしは、早速それで希望を出しました。

 

成績の良かったわたしが
学力と関係のない進路を選んだことは、
教師や両親にとって晴天の霹靂だったようで、
当然のごとく止められました。

聞く氣がなかったのでよく覚えていませんが。

 

『これだけ何の葛藤もなく止めようとしてくるということは、
本当に私の苦しみにはまったく氣が付いていなかったのだなあ』

ということに氣づかざるを得なくて、愕然としていました。

わたしがまともな進路を選ばなかったことについて、
どうやらいじめがあるらしいと知った教員もいましたが、
取った手段が「いじめは良くないことです」とHRだか授業中だかで生徒に語りかけるだけだったので、
『バカなのかこいつは?』としか思いませんでした。

え、あれって、真面目にやってんの??
それで効果が出ると思ってるわけじゃ……ないよね??
まさかねーーーまっさかーーーーー

 

それでも、何も氣づかない教員よりはマシだったと言うべきなのかもしれません。

中学校卒業まで半年という頃だったでしょうか。
席替えのグループ分けで、女子3人の構成がいじめの首謀者2人+わたしという地獄のような結果になりました。

『それでも、2ヶ月くらい耐えれば次の席替えがあるから』

だけを希望に、何も思わない両親へ「いってきます」を告げながら
毎日登校していましたが。

いよいよ期限が近づいてきたある日、担任が

「あとちょっとで卒業だし、もう席替えしなくていいよねー」

と言い出しました。

 

絶望したのは間違いないはずなのですが、
なんか、逆に、記憶がありません。

給食の食べ方を笑われたり
掃除当番がトイレの時に侮辱された記憶くらいでしょうか。

もう、その2人がというより、
世界のすべてが怖くてたまらなくなっていたので、
どうしても、笑われるような挙動不審になってしまうのです。
恐怖心がなくても、もともとおかしいところもあっただろうし……

他のところなら開けているからまだやり過ごせましたが、
トイレ掃除は密室ですからね。
男子とも別になっちゃうから本当に3人きりなのが、つらかった。

 

すべては担任の「もういいよねー」です。
でもなんか、記憶がないせいなのかもう精神力が残ってなかったのかわからんけど、
担任を恨む氣持ちは持った記憶がないですね……

 

そんな記憶のない中での進路決めでしたが、
父は、わたしの機嫌を取って懐柔しようとしてきました。
「欲しいもん買ってやるぞ」とか
「ケーキ買ってやるぞ」とか。

そうやって説得されるほどに、
モノで釣るしかできない父親の底浅さが伝わってきて
嫌悪感がつのるだけでした。

ケーキって、おま……
今思い返して改めて脱力しているのですが、
そんなもんでわたしの苦しみや恐怖が
払拭されるとでも思っていたのでしょうか。

……そうか思っていたのか。
そもそも、払拭以前にわたしが学校生活で苦しんだり恐怖を抱えていると思ってないんだもんな。
ただの思いつきのワガママだと思われてたのか……あれが…………

って、多分そのレベルですら何も考えられてないな……
「だめだろ」「だめだからな」以上の思考してないわあの人…………
分かってたけど改めて氣がつくのつらい…………

 

でも実はそれよりも、
『この人わたしが何をされたりもらったりすれば喜ぶのか全然知らないんだな』
というところが地味に衝撃でした。

まあ、仕方がありません。
ウチの家族、心の交流ないから。

(この時点では、兄とわたしにも交流ほぼなかった)

 

「全日制の高校へ行けば猫を飼ってやるぞ」だけは少し心が動きましたが、

いままで、いままで、絶対に駄目だって言ってきて、
「祖父(同居)が猫駄目だから駄目」って言ってたのはなんだったんだよ!!
(しかもお前ソレじーちゃんと相談しないで思いつきで言ってるだろ!!)

親とはぐれてどうしようもない子猫の面倒を見てたら「そういうことはするな」だし(家に連れ込んでないのに)

弱って目がにごって目やにがいっぱいの子猫を、連れては帰れないけどきれいに拭いてあげた話をすれば「汚い。病気持ってるかもしれないからやめなさい」だったし (これは母だったけど)

なのに言うこと聞かせたかったら握った弱みとして使うのかよ!!

 

当時、ここまで言語化はできなかったけど
言葉にならない苛立ちがぶわーーーっと湧いてきて
頭に血が上って

 

なんて返したのか覚えてない。

『今更ふざけんなよ』的な意味合いだったとは思うけど……いや言葉としては違ったかなあ。
怒りを込めた一言だったのは間違いないんだけど。

あと、もともと尊敬していなかった父の評価が
更に下がったのも間違いないw

 

ちなみにもちろん断った。

どうせこの家は出ていくし、
そうしたらもう2度と敷居をまたぐまいと思っていたので。

そんなところに猫がいたら後ろ髪引かれてしまうので、
昔からいたら嬉しかったけど
今更猫招かれても却って困るよ……

 

そういえば、

『中学を卒業したら家を出ていきたい。
夜学だから、昼間働きながら一人暮らしする』

という話も出しました。母に。

却下されたけど。
その時点では『まあ仕方ないか』という思いもあったので引き下がった。

 

ただし、高校生時代はほぼ一切口聞かなかった。

卒業するころ、父が

「おまえさぁ、そろそろ母さんと口聞いてやれよ。
かわいそうだぞ」

と言ってきた。

わたしもだんだん
良くも悪くもどうでも良くなってきていた頃だったので、
なんとなく、母との交流は復活した。

とはいえ父の台詞から

「母はかわいそうだが娘はかわいそうではない」

「ただ反抗期のワガママを言っているだけだ」

「娘が悪いのであって親に非はない」

「娘が言うことを聞けばすべてが解決する」

という思考回路を読み取れる程度には、娘は賢くなってるんだよ…………
(当時じゃなくて今だけど)

 

……ん?

なんか、思い返してたら
父と母が連携して説得しに来た記憶がないんだけど……

父が思いつきで言うこと聞かせようとしてくるか
母がわたしの働きかけに応える形で反対してくる (自分からはあまり言わない)、だったような……?

あの人たち、仲悪いわけじゃないけど、
コミュニケーション取らないし
取っても取れてないからかなあ…………
え、それともわたしが応じる氣なさすぎて覚えてないだけ?
謎だ

なんかこれも、真相にたどり着いたら
「わたしには思いつかないくらいレベルの低い話だった」
ってことになりそうな氣がするんだけど…………

うーん……
謎だ…………

 

そんなこんなでなんとなくまだ実家にいた時期、
母が、女子高生の自殺のニュースを見て
「若い人が亡くなるのを見るのは、やるせないね……」というコメントをつぶやいていました。

同じ年頃の自分の娘が
ほぼ同じ状態にあることには、
まったく思い至っていないことが伝わってきました。
悲しいと言いながら完全に他人事の扱いです。

分かってはいたけど、やるせないですね。
やるせないけど、もういいんだ。
もうそれでもいいんだ。

私は両親に、暴力もなく
自立までの衣食住と健康を面倒見てもらっただけで満足しています。

だからあんたらもそれ以上を求めてくんな

なんかやたら会いたがるけど
20年以上一緒にいてやっただろもういいだろ!!

特に中学卒業以後は
『まあ、親の家だし。タダメシ食わせてもらってるし』って理由で我慢してたんだからもうホント勘弁してください。

 

『あなたがたと一緒にいたくない、関わりたくない』ってハッキリ言ってんのに

その別れ際の挨拶が「また遊びに来てね」だったの
もう無理解とか通り越して怖い 怖いよ
なんだこのホラー まじで

 

ちなみに最近電話がかかってきた

(普段は知らない番号は取らない、むしろ携帯の電源切ってるんだけど
今は諸手続きの関係でどこから連絡あるかわからないのでウッカリ取ってしまった)

開口すぐに

「今年のうちにね、あんたのところへ遊びに行こうと思ってね、
でもほら、コロナになっちゃったじゃない?」って

待て待て待て待て
なんで勝手に遊びに行くって決めてんの!!
わたしの都合も氣持ちもまる無視なの……!

わたしはあなたに関わりたくないんだって言うとるやないか!!
ていうか既に決定事項なの怖ッッッッッ!!!!!

こっちはあなたの声を聞くだけで
もう精神通り越して肉体に拒否反応出たから
もうほんと、無理だと思うよ……
どう対処すりゃいいんだコレ

怖いを超えて気持ち悪くなってきた
どういうことなんだよ…………!

穏やかに優しく言ってるからダメなのか?
否応なく記憶に残るよう強く恫喝しなきゃダメ?

そういうのさーーー
別に積極的に傷つけたいわけじゃないんだから
さすがに氣分悪いんだけど……!

でもやらなきゃだめなのかなーーー
う~~~~~!

(もしかしたら認知症始まってるのかなあ……)

(ただ、たださ、
認知症によるものなのか
もともとの性格なのか
正直よくわかんないんだよな…………
両親共フツーに会話通じないし、そもそも会話しなかったし……)

(かーちゃんが認知症なったとして
補佐できるだけのリソースがないぞ、こまったな)

 

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